ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

 サン・アクト株式会社は京都で、環境や緑化だけでなく、
深く多様な衣食住空間をできる限り発信することを目指す企業です。
 ベンチャー企業社長である、私自身が語る挑戦と苦闘の日々。
また、妻と5人の子供達の歩み、そして様々な方へ、私なりの思いをこのブログで発信続けていきます。
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2018.08.01 Wednesday | - | - | -

インドネシアのムラピ山噴火の貴重な現地画像

ムラピ山

 現在、共同で事業展開している「本藍染雅織工房」の中西社長様から、 貴重な画像を頂戴した。
 中西氏はインドネシアのジョグジャカルタ州で藍染指導をされており、その現地スタッフ各位が撮影された写真。
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2010.12.03 Friday | 時事問題への思い | comments(0) | trackbacks(0)

なぜ竹刀でなく、手で殴ることができないのだろうか



 過日、相撲界でまた騒動があった。以下、「「間垣親方が弟子殴りけが 十両の豊桜はお玉で8針負わす」事件です‐事件ニュース:イザ!」より一部引用する。
 大相撲の間垣親方(55)=元横綱二代目若乃花、本名下山勝則=が、弟子を竹刀で殴ってけがをさせていたことが分かり、時津風部屋の新弟子暴行事件を受けて発足した日本相撲協会の再発防止検討委員会は17日、東京・両国国技館で開いた臨時会合で同親方を厳重注意とすることを決めた。

 陸奥部屋で十両の豊桜(34)=本名向俊昭=が1月下旬に序ノ口力士を調理器具のお玉で頭をたたき、8針縫うけがを負わせたことも判明。豊桜と師匠の陸奥親方(49)=元大関霧島、本名吉永一美=の2人も厳重注意とした。

 相撲協会の理事でもある間垣親方は、両国国技館で開催中の夏場所4日目(14日)の朝げいこで、序二段力士を竹刀で殴打。当日の取組を土俵下で見た審判から力士のけがについて報告を受けた。

 豊桜は今年1月、けいこの前に生活面を教育しようとして、力士の頭をお玉で約10発なぐった。すぐに救急車を呼んだが、陸奥親方に報告しなかった。親方は、この力士が4月20日に首を痛め、5月初旬に入院し、頭を丸刈りにしたときに、頭部に傷があることに気付いた。力士は殴られたことを隠そうとしたが、両親に電話して確認し、事件を把握した。

 一方は、竹刀で殴った怪我が露呈する程、弟子を殴り、一方では、後輩力士を8針も縫う程の怪我を「お玉」で負わせたという。

 この事件について、「「【甘口辛口】5月19日」コラむ‐その他論説ニュース:イザ!」(署名は相撲界コラムでは著名な今村忠氏)が、以下のように述べられている。こちらも一部引用する。
 
間垣親方のいうことにもうなずける部分はある。「いまの子は頭がいいから怒られない、叩かれないとわかると、いうことを聞かなくなる」 ▼現に叩かれた弟子は「オレが悪いんだから怒られて当然」と両親に報告し、「相撲を続けたい」と泣いて頭を下げたという。これを暴力ととるのか、愛のムチととるか。中華料理用のおたまで仕事を怠った若い力士の頭を殴り、8針縫うけがを負わせた豊桜の制裁も行き過ぎとはいえ陰湿ないじめとは違う ▼暴力を肯定する気は毛頭ないが、過剰に反応しすぎて尻の一つも叩かなくなったら強い力士は育つまい。ぬるま湯になりすぎて「親方に“ばかヤロー、このヤロー”といわれた」と“言葉の暴力”まで問題にされかねない。正しい愛のムチの意味を親方も弟子も、もう一度考え直す必要がある。

 今村氏の主張は、「現代の若い力士達は怒られない、叩かれないと思うと言うことを聞かなくなるものだ」という間垣親方の言い分にまず理解を示している。また、お玉で頭を殴った件についても、「行き過ぎた制裁と認めながらも陰湿ないじめとは違う」と位置づけている。そして最後に、「暴力はもちろん肯定しないが、世間の風潮などに過剰に反応することで、尻の一つも叩くことができない状態では強い力士は育たない」と結論付けている。

 私は、今村氏の主張に対し、非常に違和感を覚える。

 相撲だけでなく、特に格闘技関連のスポーツでは、竹刀を手に持って、指導に当たる風景を良く見る。しかし、私の知識不足かもしれないが、サッカーやラグビー、野球などのスポーツでは、竹刀を持って指導する風景を見た記憶がない。
 私は、小学校から高校生までサッカー部に所属していた。今から25年以上前のことだ。当時、先輩はもちろんのこと、コーチも監督も竹刀など手に持っていなかった。換言すれば、一部のスポーツにおいて竹刀が指導に使用されるといっても良いだろう。
 いずれにせよ、クラブ活動中に私は、監督・コーチだけでなく先輩からも何度も怒られた。言葉だけで足りない場合は、監督は私の尻を思い切り足で蹴り上げた。その痛みは今も忘れることは無い。
 今も昔も怒り方はともかくも、怒られることで、何かを理解、体得し成長していくことに変わりは無い。今村氏や親方が言うように、何もしなければ「言うことを聞かなくなる」という可能性を私は否定しない。

 重要な点は、指導方法の根底に存在すべきである「本当に強くさせたい」といった気持ちがあるかどうかだ。「愛情が存在しているかどうか」といっても過言ではないだろう。

 竹刀というモノで殴ることと、手や足など自らの力で殴ること。いずれも指導の一つの手段に変わりはない。
 しかし、大きな違いがそこにはある。竹刀で殴られた本人は本当の意味での「痛み」を感じる。しかし、竹刀を使う指導者には「痛み」は伴わない。軽く手が痺れる程度だろう。

 私は、先に引用した今村忠氏が言う「正しい愛のムチ」とは、殴られた本人も、そして殴る指導者も双方が「痛みを伴う」ものでなければならないと考える。
 お互いが「痛み」を伴わない方法は、指導ではない。単なる一方通行の暴力だ。そこには「愛」など微塵も存在していない。「弟子達が多いから竹刀を使わざるを得ない」といった言い訳も通用しない。この言い訳こそ、自らの手で殴ることで伴う「愛情のかけらも無い単なる痛み」を回避していることと同じだと私は考える。

 私には子供がいる。このエントリをご覧いただいている方にも子供がおられる方は多いだろう。皆様は、自分の子供を竹刀で殴った経験があるだろうか。
 私は、自分の子供が言うことを聞かない、勉強しないなどの理由で竹刀や他のモノで息子達や娘を殴ることは今までも、そしてこれからも無いと断言できる。もし、本当に必要と考えた際は手で殴るだろう。あるいは尻を足で蹴り付けるだろう。その行為で、私自身もその痛みを感じる。そして、その痛みで自らの子供が受けた痛みを身体で理解できる。そうすれば、怒りや感情のみが主体となっていると言っても過言でない「何度も殴り続ける」という制裁に近い事象も生じないはずだ。

 このように、子供も自らも同じ痛みを感じた際に、初めて単なる発作的な怒り、暴力から「しつけ」・「子育て」へとその行為が昇華していくと私は考える。
 ましてや、お玉で頭をたたき8針もの怪我を負わすなどといった行為は、先に引用した今村氏の「陰湿ないじめとは言えない」といったレベルを超越した「単なる暴力」に他ならない。なぜ、お玉で殴らなければならないのか。なぜ自らの手で殴ることができないのか。そこには、身近にあったお玉で殴るという単純かつ発作的な「怒り」しか見えず、「この後輩力士を育てよう」という意識は皆無だとしか私には思えない。

 時津風部屋の新弟子暴行事件を受けて発足した日本相撲協会の再発防止検討委員会。

 再発防止云々で外部の識者を呼ぶよりも、「力士を育てよう」という心からの思いを忘れた相撲界の現実を再認識しなければ、いつになっても何らかの事件は再発するだろう。また、今村氏が指摘するように「暴力はもちろん肯定しないが、世間の風潮などに過剰に反応することで、尻の一つも叩くことができない状態では強い力士は育たない」ことは事実だろう。しかし、そこには「弟子や相手を思いやる気持ちがまず先にあるべきであり、その思いやる気持ちが欠如した事象の最たるものが時津風部屋の残念な結果にある」と私は考える。
 感情が優先し、第三者的立場での冷静な指導、姿勢が時津風部屋の事件では皆無に等しかったとも言える。

 自らの痛みを避け、一方通行の痛みしか伴わない「愛の通わない指導」が「愛のムチ」と称して、これからも続けられるのであれば、過ちはこれからも何度も繰り返されるだろう。

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2008.05.20 Tuesday | 時事問題への思い | comments(5) | trackbacks(0)

硫化水素自殺の連鎖:ネット規制より、自らをコントロールできるメディアこそが報道を規制すべきと私は思う

画面

 硫化水素を発生させることによる自殺が相次いでいる。これに対し、警察が国内のプロバイダーに硫化水素を発生させる方法など、自殺を促すような書き込みを削除するように申し入れたという。しかし、海外のサーバーまでには手が届かない話であり、完全な解決策とは言えない。誰もがわかっているはずの話だ。

ネットの情報は発端に過ぎない

 ネットに書かれた方法を見たことで、誰かが硫化水素による自殺を図ったことが発端である可能性が高いことを私は否定しない。しかし、ここまで硫化水素による自殺が連鎖している原因が果たしてネットが最大の原因かと言えば私には疑問符が残る。
 「硫化水素自殺が続く 鳥越「ネット情報見た連鎖」: スーパーモーニング :J-CAST テレビウォッチ」で、鳥越氏はこう述べている。
 
明らかにインターネットで情報を見た連鎖反応、練炭自殺に変わる方法でまるで流行のようだ。社会が病んでいるとしか思えない。

 先に書いたように発端はネットかもしれない。また「ネットに氾濫する有害情報=社会が病んでいる一つの証左」であることも否定しない。しかし連鎖反応、あるいは「流行」という表現が適切かどうかはともかく、硫化水素による自殺が多発している原因が、鳥越氏が指摘する「明らかにネット情報によるものだけ」とは私には思えない。

自殺者の報道をメディアは網羅していないという現実

 そもそも、日本は年間に約3万人の方が自殺によって亡くなっている。自殺の原因は多様であり、命の絶たれ方もそれぞれだ。しかし、年間3万人にも及ぶ自殺者について、メディアはすべてを報道していない。いうまでもなく、3万人の自殺された方すべてを報道していれば、それだけで毎日、紙面は埋め尽くされてしまう。
 私はメディア関連の人間ではないため、自殺に関して、どのような基準で記事や報道として取り上げるかについては、わからない。ただ、先に述べたように自殺されたすべての方を報道していないことだけは確かだ。

硫化水素による自殺報道の露出の異常さ

 硫化水素自殺が相次いでいることは確かだ。しかし、様々な理由で命を絶つという大きな事柄であるとしても、現時点では、絶対数を見れば、年間3万人の自殺によって亡くなられた方全体では一部に過ぎないにも関わらず、新聞やテレビなどでの報道、露出は異常に多いと言えるのではないだろうか。私には恣意的な何かが存在しているのではと思えて仕方が無い。それが視聴率なのか、他の人を巻き添えにしてしまった事案があった硫化水素の自殺特有の問題に報道の必要性を考えているのか私には不明だが、それにしても多過ぎる。
 例えば、「「硫化水素自殺? 茨城で公務員の男性死亡」事件です‐事件ニュース:イザ!」では、茨城県の公務員の男性が亡くなった事件について報道している。しかし、「硫化水素自殺?・・・」という見出しにする必要性はあるだろうか。

 他にも「硫化水素自殺相次ぐ・・・」といった報道は異常と思えるほど多々ある。

ネットではなくテレビや新聞がまだまだ一次情報という現実

 硫化水素による自殺の議論から少し話を変える。

 祝日になると私の家には子供たちの友人が多数集まり、自宅や外で遊んでいる。小学校の高学年だ。彼ら彼女らの会話を聞いていると「KY(空気が読めない)」といった、流行語にもなった言葉を日常語のように違和感無く使っている。
 また、何かの会話の流れで、私の長男に安倍前総理のことを聞いたことがある。長男は安倍前総理が何とも表現し難い辞任をしたことを知っていた。

 私は自宅で「KY」といった表現を子供たちにしたことは無い。また、安倍氏の辞任騒動について親として教えたこともない。しかし、長男に限らず、今の小学生たちは、「KY」や安倍氏の辞任など世間を騒がせた事柄について知っている。
 彼ら彼女らが、なぜこのようなことを知っているのか。親や先生からではないだろう。誰かがテレビや新聞の報道を見たことが発端で、それが友人間で伝聞したのだろう。そしてテレビや新聞の報道が繰り返されることで、強固なものとなって伝播していく。自殺の議論とはまったく違うが、嫌になるほどテレビから繰り返し流されるお笑い芸人のフレーズが、全国の子供たちに伝播し真似されていくことと循環は同じと言える。

 リアルタイムといっても良い程、ネットは情報の伝達が異常に早い。巨大掲示板が最たる例だろう。しかし、小学生たちがパソコンや携帯の画面で四六時中、ネットを見ているとは思えない。少なくとも子供たちにとっては一次情報は繰り返し流されるテレビや新聞だ。お年寄り、高齢の方も多くの方が一次情報はテレビや新聞だろう。

 過日、中学時代の現役の恩師と話をする機会があった。先生曰く、今の中学生は、当然の如くほぼ全員、携帯電話を持っており、多くの中学生がブログも持っているとの話だった。また、私にはあまりよく分からない分野だが「学校の裏サイト」や「プロフ」も常識との話だった。
 中学生や高校生も携帯などのツールを使って様々な情報を得ると共に情報を共有しているだろう。よって、彼ら彼女らにとって一次情報はネットと言えるかもしれない。ただ、その一次情報は中身はともかく極めて狭い内容に限定されていると考える。いわゆる自分自身の周辺の事柄であり、政治問題や社会問題など世間で起こっている様々な事象などでは無いはずだ。ましてや「硫化水素で自殺する方法がこのサイトで書かれている」といったことを日常的に中学生や高校生が情報交換しているとは思えない。一部ではそんな情報を交換している可能性も否定できないが。

 よって、冒頭で書いたように、中学生や高校生にとってもネットは発端に過ぎない。ネットは単なるツールと考えた方が正しいかもしれない。しかし、何らかの形で事件化した段階でメディアがそれを繰り返し報道する。その報道が友人同士で伝播され、改めて、中学生や高校生がネットで情報を得ようとする。そして、本当に悩みを持つ子供、そして若者や大人が、実際に残念な行動に移してしまう。それが硫化水素の自殺の連鎖の根幹ではないだろうか。

やはりメディアは報道を自主規制する段階にある

 ネットが発端であることの社会性は強く認識する必要はある。有害情報の発端であることも同様だ。しかし、背後にリアルかつダークな人間が現実に存在しているとしても、ネットは簡単にはコントロールが効かない。しかし、報道はコントロールできるはずだ。

 メディアの過剰報道は、極めて微妙な表現だが、悩みを持つ人々の背中を押しているのではないかとすら私は感じる時がある。そういった可能性をメディア、報道する方々は少しでも考えているのだろうか。考えているのであれば、メディア全体で協議し自主規制を行うべきだと私は考える。

 アメリカ同時多発テロ事件、いわゆる9.11事件では、世界貿易センタービルへの飛行機の激突場面は数千人が瞬時に殺害された映像であり、子供たちへの影響を考え、その後、リアルな映像の報道は自粛されていった。同時多発テロ事件という世界を震撼させ、これこそ報道を続けるべきものについても、ある部分についてアメリカのメディアは自主規制というコントロールをかけた。

 自分自身が子供を持つ一人の親として考えてみればいい。「硫化水素で自殺した方が相次いでいます」という番組を私の子供が見ていれば、少なくとも私は無言でチャンネルを変えるだろう。いくら自分の子供に対して不安を持っていないとしてもだ。ワイドショーなどで過剰表現された番組ならなおさらのことだ。
 換言すれば、現時点では親がチャンネルを変えるしか方法がないのが現実なのだ。しかし子供が見ている番組を常に監視することなど不可能だ。だからこそ、報道側が「自主規制」すべきだと私は考える。

 何度も言うが、ネットはコントロールできない。しかしメディアは自らコントロールすることが可能だ。だからこそ、明日からでも「硫化水素の自殺」に関する報道は一切、自粛すべきと私は考える。
 メディアが繰り返し報道することで生じる連鎖反応的な硫化水素による自殺者をこれ以上増やさないために。
 
 もし、自らコントロールすらできないのがメディアの現実であるならば、人の命に関わる報道など、一切する立場にないと私は考える。

【関連エントリ】
インターネットに「自殺幇助」を転嫁するマスコミ::マスコミ関係

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2008.04.25 Friday | 時事問題への思い | comments(0) | trackbacks(3)

橋下大阪府知事が、明日からでもすぐに実行可能な収入増加策

お金

 橋下大阪府知事が就任し、1ヶ月程度が経過しようとしている。出馬前の騒動はさておき、就任後の功績は何だろうか。唯一の実績、それが「大阪府民との財政危機感の共有」だ。
 以下、「橋下大阪府知事がわずか1カ月で上げた大きな功績 - ビジネススタイル - nikkei BPnet」より一部引用する。
 大阪の財政再建にとって最も重要なことは、財政の危うさを府民が自分のこととしてどこまで強く意識できるかだ。自分自身が借金まみれで自己破産の瀬戸際に追い込まれれば、誰だって真剣になるだろう。生活そのものを見直し、人生をやり直すためにどうしたらいいか、必死に考えるだろう。だが自分の住んでいる自治体の財政が破綻寸前だと聞かされても、ピンとこない。知識として財政の危うさを認識することと、リアルな危機として強く意識することとはまったく違う。

(一部割愛)

 橋下知事は就任からわずか1カ月で、財政再建にとって最も重要な「危機感」の醸成に成功している。地元のテレビや新聞への出演を通じて橋下知事がアナウンスした「財政危機」コールは、大阪府民の意識を大きく変えてしまった。日ごろからニュース報道に携わっているアナウンサーでも、「こんなに大阪の財政が危ないなんて知りませんでした」と言うほど。事実、大阪は「阪神」でも「吉本」でもなく「財政危機」が大ブームになっている。

(一部割愛)

 まだ1円の財政支出カットもできていないが、府民自身がまず危機を持つという最も重要なプロセスが既に出来上がってしまった事実は、すごい。
 府民の危機感なしに、知事は戦えない。府庁の人員合理化、予算のカット、増税、財政再建は「痛み」を甘受することである。どこまで府民に我慢してもらえるか……そこに尽きる。
 もちろん縮小均衡だけでは大阪府は死んでしまう。もう一方で、大阪経済を拡大し、府民を鼓舞する前向きな施策も同時に行っていかなければならない。しかし、何をさておいても、重要なこと、それは「危機感」の共有だ。1カ月でそれを成し遂げたということは、「メディアの寵児」であることの強みを、新知事は最大限に生かすことに成功したということだろう。最良の出発だ。

 このように、京都人の私にとっては、どこまで浸透しているか定かではないが、大阪府民の相当程度の人々が財政に対する「危機感」を抱いたと私は推測する。そのきっかけづくりを意識的なのかそれともこれしか争点が無かったのか、いずれにせよ就任後、新しい知事は叫び続け、成功した。この点については私も上記引用記事に同感だ。

 ただ、問題は次の重要なステップ。いわゆる大阪府の財政再建の具体策の話だ。ちなみにこれから披露する私の提言は極論であるが。

 まずは、前の大阪府知事であった太田氏の話をする。

 前知事は、選挙前にいわゆる「政治とカネ」の問題が露呈し、出馬を断念された。
 特に、前知事が中小企業経営者らでつくる懇談会の会合に講師として招かれ、一回当たり50万円から100万円程度の謝礼を受け取っていたことはまだ記憶に新しい。金額の大きさもさることながら、これら中小企業経営者の一部の企業が府の事業を受託していたことも判明した。講師料100万円を支払う側にとってみれば何らかの「便宜」を期待していることは誰が見ても当然の話であり、当然の結果ともいえる。

 さらに話題が変わるが宮崎県の東国原知事の話だ。

 彼はあらゆるメディアに露出し、宮崎県を宣伝した。彼の口調は流行語にもなり、かつそれなりの経済効果を宮崎県にもたらした。彼の今のスタイルがいつまで効果があるかは不明だが。
 ただ、何かの番組で、メディア出演は公務であり、出演料はすべて県の収入になると東国原知事は言われていた記憶がある。公人であり出演料はそれほど高くないとも言われていた記憶もある(ここらあたりは曖昧であるため間違っている場合はご容赦いただきたい)。

 さて、この二人の知事の事例から、何らかの「便宜」が見込める可能性があれば1時間程度の講師料が100万円も支払われるという事実。一方で、知事という公人のためメディア出演は公務に該当し、少額の出演料しか支払われないという事実が透けて見える。
 しかし、東国原知事が出演すれば、少なくとも現時点ではそれなりの視聴率がとれるだろう。換言すれば、「高視聴率」という大きな「便宜」が存在しているということだ。しかし、公人・公務という名目によって出演料と視聴率が残念ながらアンバランスな状態になっている。

 さて、やっと本題に入る。

 今、橋下知事の頭の中には、無駄なコストのカットしかないと私は考える。無駄な支出を探し、必要であれば最大限に削減し、それでも府の再建不可能と考えれば、自らの給与だけでなく職員の給与をカットすることも検討するだろう。
 企業経営で考えても、売上を伸ばすよりも販管費などのコストを削減する方が早い。ただ、企業は売上を伸ばすことももちろん考え、努力する。そうでなければ経営を続ける意味も無ければ存在意義も無い。

 よって、企業経営同様、コスト削減ばかりではなく、知事が売上を伸ばす行動に出ればよいのだ。それも目に見える形で。

 橋下知事は弁護士でありながらも過去にタレント業として多数の番組に出演されてきた。またその知名度を活用し全国で講演もされていた。その収入は1億円近いとどこかのメディアで見た記憶がある。
 そこで、公務としてメディアに出る場合であったとしても、橋下知事はタレント時代の出演料と同程度の額をまず要求すべきだ。そして、出演料すべてを大阪府の売上として大阪府の収入にすればいい。講演料も同じだ。大阪府全体の再建としては微々たる額かもしれない。ただ、知事自ら売上を計上することに意義がある。

 もちろん、メディアや講演依頼側は、「あなたは、もはや知事であり、タレントではなくその場合の出演料の相場があり、それを破るという前例はつくりたくない」と相手は徹底抗戦の構えを見せるだろう。
 しかし、橋下知事は知事であると同時に商売上手な「大阪人」だ。「そんなことを言うのなら一切、あなたの局には出演しません」というか、「いや、そこのところをタレント時代のお互いの・・・」などとあの手この手で交渉すればいい。

 タレント時代の出演料同額は無理なことは百も承知だ。ただ、知事、いわゆる企業で言えば社長自らが売上を稼ぐ努力を見せ、それを実現し、大阪府の収入として実現させることこそが先に述べたように極めて重要なことなのだ。

 知事就任後、いつも「財政危機」・「支出はできる限り減らす」と言い続ければ、いつか人の心は離れていく。危機感の共有が薄まることで、今からでも予測できる話だ。
 だからこそ、メディアに露出する機会を増やし、それなりの出演料を頂戴し、その金額を公にすると共に、すべて大阪府の収入にすることで、「あぁ、知事が率先してカネを稼いでる」と大阪人は納得し、大阪人の心を引き付け続けられる。もちろん、出演料の交渉過程も公開すればいい。極論だがそれこそ「出演料の入札」をすればいい。

 元タレントであり、商売上手な大阪人という好条件であるからこそ、できる話であり、極論と思われる方も多々、おられるかと思うが、明日からでもできることだ。公務ではなく一人のタレントとしてバラエティ番組に出演されてもいい。その立場の方が出演料、いわゆる大阪府の収入も増加するだろう。
 法律上の問題があるかもしれない。知事がバラエティに出るとは不謹慎と野党が問題視することも予想される。しかし、大阪府が破綻する方がはるかに大問題だ。そこまで知事が率先して日銭を稼がなければならないことを見せることで、「危機感の共有」は引き継がれていく。

 再度になるが、「何でもカット」を言い続けると人々はある時期になると「うんざり」としてくる。そして大阪人は、一度、少しでも嫌いなところがあれば、極端に全体が嫌いになる人々であることは橋下知事もよくご存知のはずだ。

 我が京都の知事には実現不可能な話だけに悔しいが、明日からすぐに出演料交渉を始め、できる限り早く、そして高い出演料を大阪府の収入として獲得されればと橋下知事のこれからの現実的な活躍に期待したい。「高視聴率」という「便宜」をもたらすことができる時間はそれほど長くはない。そして、政治という初体験の現場で橋下知事の価値を如何なく発揮できる唯一の策は、これしかないと私は思う。

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2008.03.07 Friday | 時事問題への思い | comments(5) | trackbacks(1)

庶民感覚を忘れたニュースキャスターに「国民の代弁者」を名乗る資格など無いと私は思う

TV

 昨晩は久しぶりに早い帰宅となった。通常は22時過ぎに夕食となるのだが、21時半前には夕食を終えた。昨日は急速な円高が進んだため、夕食後、自室にてノートパソコンでニュース番組の音声を聞きながら、読書などをしていた。
 基本的に私はTVのニュースを見ない。見ることができる時間に帰宅できないという理由もあるが、夜のニュース番組の一部に何かワイドショー的な雰囲気を感じ、あまり価値を見出せないことが私が夜の番組を見ない最大の理由だ。

 さて、22時から始まった某ニュース番組。冒頭で円高・原油高・材料高、そして政治の空白、これらが相関し「国民の負担に直結」しているといった報道がなされていた。報道内容そのものは間違った情報ではないだろう。トップニュースとして果たしてふさわしいものかについては僅かばかり疑問符が残るが。
 いずれにせよ、昨晩の急速な円高についての情報を得るため、私は、ニュース番組の音声を聞くだけでなく、画面そのものをノートパソコンで見た。私が必要としていた円高に関する今後についての情報は極めて少なかったが、ニュースキャスターが少々、力みながら画面を直視し「政治家は国民の感覚を理解しているんでしょうかね?」といったコメントや、「我々、国民は動向を注視すべきです」と半ば確信めいた口調で言われていたことのみが大きく印象として残った。

 久しぶりに見たニュース番組だったが、過去に見た違和感が昨晩、また蘇ってきた。「国民」という言葉に対する違和感だ。

 金額がいくらか私は知らないが、ニュースキャスター各位はそれなりの高額の報酬を得ているはずだ。局専属であったとしても、メディア関連の給与は高いと聞いている。ましてやフリーであれば、我々の想像をはるかに超えた金額を報酬として獲得されているだろう。

 少し話題を変えてみよう。

 今回、久しぶりに見た22時に始まるニュース番組だけでなく、早朝や夕方にはワイドショー的視点と報道的視点が混合した番組が多々ある。芸能人が司会役をする場合もあれば、コメンテーターをしている場合もある。これら司会役・コメンテーターもそれなりの報酬を得ているはずだ。私がこれらの番組を見る機会・時間は皆無に等しいが所得が庶民と比較して極めて高いという点に関しては間違っていないだろう。
 夜間のニュース番組と大きく違う点は、これら早朝や夕方の番組が「庶民の目線」を中心として構成されているという点だ。アナウンサーもコメンテーターも「我々、庶民からすれば理解しがたいですね」といった会話が多々、なされている。また、いわゆる「庶民」の涙腺が潤むような切口でわざわざ報道する場合もある。一つしかあり得ない「事実」も伝え方でこれほど変わるものかと思い知らされるまさにワイドショー的側面だ。

 いずれにせよ、これらの時間帯の番組は「庶民の味方」という側面が大々的に恥じらいも無く繰り広げられている。

 さて、夜間のニュース番組に話を戻そう。

 ここではどの番組でもニュースキャスターはさすがに「我々、庶民・・・」といった表現はほとんどされない。ただ「国民」という言葉は何度も使われている。

 普通の人間が「国民」という言葉を日常会話で使うことは稀だ。私は経営者の一人であり、スピーチも何度も行っているが「国民」という語句を使うことは皆無である。昨今、「国民」という言葉を多用するのは「政治家」、そしてニュースキャスターくらいだろう。
 ただ、「政治家」は国民の代表の一人といっても過言ではなく「国民」という言葉を多用してもおかしくない。今の政治家が本質的に国民の代表であるかについては今回、議論の対象としない。いずれにせよ、政治家は「選挙」という国民が参加するシステムを通じて選ばれた数少ない「国民」の代表だ。では、ニュースキャスターは、国民が選んだのだろうか。決してそうではない。

 しかし、一部のキャスターは「国民としては理解しがたい行為ですね」といった、自らが「全国民の総意を代弁する人間」と誤解しているかのような表現を多用される。TV画面から数百万人に見られているという現実下では「自分は国民の代弁者の代表」といった潜在的な何かが無意識に心の中に入り込むのかと思わざるを得ない程だ。

 さて、先に述べたように私は経営者であり、小さなベンチャー企業の社長だ。夜のニュースキャスターや早朝・夕方の番組の司会役、コメンテーター各位の方がはるかに高い報酬を得ていることだけは断言できる。換言すれば、私はいわゆる「庶民」と変わりないということだ。そして、町を歩いている大多数の人間こそが「庶民」であり、彼ら彼女らこそが「国民一人ひとり」であり、何らかの意見を持ち、それを発する場があれば、発する「資格」を持つと私は考える。
 逆に、庶民とは比較にならないほど多額の報酬を得て、かつ庶民としての生活、そして最も大切なことである「庶民感覚」を忘れてしまったニュースキャスター各位。もちろん下積み時代において「庶民の一人」だったことについては否定しない。しかし、既に「庶民感覚」を忘れてしまったキャスターに「国民の総意を代弁する人間」としての「資格」は無いと私は考える。

 「国民」という表現が好きなニュースキャスターに、一度、小さな会社を経営されればどうかと提案したい。どれほど毎日、苦労の連続であるか体感いただけるだろう。「円高・原料高の町工場の苦しみ」をカメラクルーが撮影してきた「結果」だけを見て、「国民の生活は一層、苦しくなっていますね」などと言ったところで、誰もその言葉に共感するはずがないことを少しはご理解いただけるかもしれない。
 人々の共感を獲得するためには、少なくとも自分が経験し、壁にぶち当たり、その壁を乗り超えた事実が無ければ誰も共感もせず、その人物に対する敬意も存在しない。これらの過程なくして、あるいはあったとしても、異質の庶民感覚と共に「言葉」だけで人々の共感を得られていると幻想しているのが、「国民」という言葉を多用する一部のニュースキャスター各位であり、そして一部の政治家であると私は考える。

 ニュースキャスターの「国民の一人として憤りを感じますね」という言葉そのものに違和感、憤りを覚えるのは私だけだろうか。

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2008.03.04 Tuesday | 時事問題への思い | comments(4) | trackbacks(0)

心と精神の痛みが人の理性を奪う:その唯一の解決策

理性を失う時

 私にとって今までまったく知らなかった「いじめ」が全国で広がっているようだ。「肩パン」というものだ。以下に、「「「まったくのいじめ」“肩パン”で高校生ら3人逮捕」事件です‐事件ニュース:イザ!」より引用する。
 じゃんけんの勝者が敗者の上腕部付近を力一杯殴る「肩パン」遊びと称して中学生を殴りけがを負わせたとして、警視庁少年事件課は傷害などの疑いで、16歳と17歳の無職少年2人と、都立高校1年の少年(16)=いずれも東京都江戸川区=の計3人を逮捕した。

 「肩パン」と呼ばれる遊びは、中高生を中心に全国に広がっているが、立件されたのは珍しいという。

 調べでは、少年らは昨年11月15日午後6時10分ごろ、江戸川区小松川のショッピングセンターで、顔見知りの中学生2人に対し、上腕部をなぐるなどの暴行を重ね、1人に全治2週間のけがを負わせた疑い。

 「肩パン」は傷跡が外部から見えにくく、いじめにも利用されている。調べに少年らは「痛い目にあわせるのが目的で、まったくのいじめ」と供述している。

 ネットで「肩パン」を検索するとそれなりの数がヒットした。「肩パン - Wikipedia」には以下のように紹介されている。一部のみ引用しているが、リンク先には詳細が記載されている。是非、ご覧いただきたい。
 肩パン(かたぱん)は相手の肩にパンチを繰り出し面白がるという行為。肩パンチの略称。スキンシップ行為や罰ゲームなどの遊びの一種であるものの、過度の行為はいじめの一つとして問題視されている。

 「肩パン」はじゃんけんで勝った方が負けた相手の肩を思い切り殴るという一種の子供たちにとっては遊びのようなもの。顔ではなく外から見えない肩付近を殴るため、傷跡が見えず、殴り続けることでいじめにもつながり、引用した記事のように逮捕につながったのだろう。

 まさしく、「目に見えないいじめ」であり、「いじめなのか遊びなのかすらも目に見えない行為」だ。

 殴られる相手は当然、痛みを感じる。しかし、殴る方も痛みを感じるだろう。いくら遊びで慣れていると考えても、殴る方には必ず痛みが残るはず。殴られる方と同じ程度の痛みを感じるかもしれない。
 しかし、「いじめているという意識」あるいは「遊んでいるという意識」が「痛み」を忘れさせてしまうのかもしれない。あるいは「痛み」を凌駕した「心の中の楽しさ」といった何かが殴る側の意識に生じるのかもしれない。

 そして、その「痛み」を凌駕した何かが、過度の行為となり、理性を失わせるのではと私は考える。換言すれば、理性を失った行為には「心」と「身体」の痛みが伴うということだ。
 もちろん、暴力のプロといったいわゆる感情を持たない人間には、「心」にも「自らの身体」にも痛みは皆無だろう。「暴力の機械」のような存在だが、絶対数は限られているはずだ。

 さて、昨今、問題となった「大相撲・時津風部屋の力士急死事件」。「asahi.com:前親方、前夜の暴行黙認 正座崩すと殴るける 力士急死 - 社会」から、「心」と「身体」の痛みという視点から一部引用する。

 大相撲・時津風部屋の力士急死事件で、前時津風親方の山本順一容疑者(57)=傷害致死容疑で逮捕=が、斉藤俊(たかし)さん(当時17)が死亡する前日の昨年6月25日夜、正座を続けられない斉藤さんを「根性がない」となじって兄弟子に暴行させていたことがわかった。この暴行が続いた後、前親方がビール瓶で斉藤さんの額を殴って本格的な暴行にエスカレートしていった。

(一部割愛)

 前親方は斉藤さんが正座に耐えられない様子を見ると「お前は根性がない」と叱責(しっせき)。その後、斉藤さんが足を崩すたびに、兄弟子の伊塚雄一郎(25)と木村正和(24)の両容疑者=同=が殴るけるの暴行を加えたという。その暴行の様子を、前親方は黙って見ていたという。

 暴行が断続的に繰り返された後の同日午後8時半ごろ、酔いが回ってきた前親方はビール瓶の底で斉藤さんの額を続けざまに4、5回殴打しはじめた。最後の1発が額を強打して出血した。

 前親方は伊塚容疑者らに「お前らも教えてやれ」などと指示。藤居正憲容疑者(22)=同=が「根性を入れ直します」と言って、3人で宿舎裏のけいこ場に連れだし、鉄砲柱に縛り付けて平手打ちを繰り返すなどの激しい暴行が始まった。木の棒も持ち出され、打ち据えられた斉藤さんのうめき声は大広間まで聞こえたが、前親方は黙認したという。

(一部割愛)

 この引用部分だけを見ても、これが「人間がすることか」と思うのは私一人だけでは無いと思う。
 私は相撲界は門外漢だ。ただ、「けいこ」と称した「しごき」に似たものが角界に過去より存在していたことは各種報道などで以前より承知している。

 親方の言うことには絶対に逆らうことができない世界。そうだとしても、私には重複になるが「人間がすることか」と恐怖感さえ覚える。

 亡くなった力士の方が暴行を続けられていた際、彼には「肉体的な痛み」だけでなく、恐怖感や絶望感といった「心の痛み」も感じていただろう。そして、日常的な出来事なのか、それとも日常的な行為を逸脱していたのか私にはわからないが、暴行を続ける兄弟子達という存在と現実。
 兄弟子達も亡くなった力士を殴り続けることで自らの手足に「肉体的な痛み」を感じたはず。そして、続けざまの暴行で刻々と変化していく力士を見て、彼らは躊躇に似た「心の痛み」も感じたに違いない。そうでなければ感情を持った人間とは言えないと私は思う。

 しかし、暴行を続ける「肉体的な痛み」と「やり過ぎではないか」という葛藤心に似た「心の痛み」があったとしても、親方の視線、時には目に見えない視線を感じた兄弟子達がついに彼らの理性を失わせた。

 そして、理性を失った行動は、残念な結果を生じさせた。

 「いじめ」や「殺人」といった様々な事件。事件化、表面化していなくとも、どこかで起きている事象。そこには必ず最初から最後まで「心」と「身体」それぞれの「痛み」が混在していると私は考える。そして、何かの引き金、何らかの段階で、「心と身体双方の痛み」は意識から忘れ去られ、理性を失い、そして残念な結果が生じる。

 これは、どんなに理性を持った人間でさえ、極限状態に追い込まれれば、あり得ること。私自身も例外とは言えないだろう。

 残念な結果、理性を失った結果を避ける唯一の方法は、効力が少ないと思われるかもしれないが、「心の痛み」あるいは「身体の痛み」を感じた最初の段階で、行動をとめることしかないと私は思う。
 たかが、じゃんけんで負けたから肩を殴るという行為。「根性がない」から「根性を入れ直す」ために暴行するという行為。いずれも、最初の段階で誰かがやめなければ、その行為を続けていくどこかの段階で人間は理性を失ってしまう。

 最初の段階でやめることは無論、難しいとは私も思う。特に絶対的権威者が存在する親方の存在を超越し、やめることは当事者の死活問題にもなりかねない。しかし、最初の段階でやめるということ、そこにしか解決策は無いと私は考える。
 そのためには、使い古された言葉かもしれないが、「やめようと言う勇気」、「やめるという勇気」が最後の砦、唯一の解決策だと私は思う。

 どんなに背後に圧力があったとしても、誰かが「やめる」、あるいは「やめよう」と言うこと、そして実際にやめること。この最後の砦を守ることそのものにも「勇気」は必要となる。
 そして、やめたことで、避けられた結果を考えれば、「勇気が最後の砦であることを確信する」のではないかと私は思う。


 残念な事件や事象をこれ以上、避けるために、必要であり唯一の解決策。それが、勇気だとが私は考える。
 勇気さえあれば、悪い行動も抑制され、勇気さえあれば、自分自身を変えることもできると私は信じている。

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2008.02.13 Wednesday | 時事問題への思い | comments(0) | trackbacks(0)

中国産冷凍ギョーザ騒動における「日本人の横並び行動」と我々が学ぶべき点

中国産冷凍ギョーザ騒動から学ぶべき点

 昨今、問題となっている中国産冷凍ギョーザ。この問題は今後も解決には時間を要するだろう。
 現在、農薬の一つである「メタミドホス」がギョーザに検出され、またその他の農薬も検出され、その混入過程の解明が急がれている。

 今回のエントリは、混入経路がどこにあるかといった視点を目的としない。以下に一つの記事を一部引用する。以下、「asahi.com:「ギョーザ手作り器」の注文殺到 中毒事件で - ビジネス」からである。
 冷凍ギョーザ全般の売り上げが落ち込む一方、ギョーザ器具の大手、下村工業(新潟県三条市)には、全国のスーパーや専門店などから注文が殺到。手作りギョーザの食材コーナーで一緒に陳列するスーパーも多く、フル稼働でも注文をさばき切れない状況という。このため、1日当たり倍増の3万個へ増産を検討している。

 同社の「ギョーザ名人」(550円)、「ギョーザ大好き」(320円)など3種は、ポリプロピレン製の器具に皮と具を乗せて折り込むことで、「手軽にスピーディーに『皮閉じ』できるのが特徴」(東急ハンズ新宿店)だ。

 大手スーパーのイトーヨーカ堂は、問題発覚後の1週間、国内産のキャベツやニラ、ひき肉、ギョーザの皮などの各売上額が前年実績比2−3割増で推移。国産食材への回帰と「自宅で作れば安心」という消費者心理が浮き彫りとなった形だ。

 ギョーザ器具の企業には失礼な表現だが、何とも単純な図式と言えるかもしれない。「冷凍ギョーザは今はどれもこれも不安」=「手作りが安心」=「ギョーザを簡単に作ることができる器具を売ろう、買おう」という流れが一つ。「中国産の野菜でギョーザの具をつくるのは不安」=「でもギョーザが食べたい」=「日本産の野菜を使おう」=「日本産の野菜価格が高騰」というもう一つの流れ。さらに、中国産の野菜の価格が下落しているという報道も見た。

 少し視点を変えてみよう。米国と日本を比較した日本人特有の「横並び行動」についてだ。

 私が米国に留学していた頃(当時はまだ音楽を聴くにはカセットテープが主流だった)、ショップに行くとカセットテープは2、3種類しかなかった。
 しかし、一時帰国した際に見た日本のショップでは、10種類以上ものカセットが陳列され、特に薄型カセットケースには驚いた。しかし、薄型は日本では、一年以上前から販売されていた商品と聞いてさらに驚いた。もちろん、お気に入りの音楽を録音するという機能には違いは無い。違いは見た目であり、収納に便利な薄型といったちょっとした機能性だけだ。

 米国滞在時、少なくとも日本人なら寒いと感じる時期でも半袖で歩いている人を見かけた。逆に私なら暑いなと感じ、Tシャツを着る時期に長袖で歩いている人もいた。ご存知のように米国は多民族国家。様々な人種が集まっているため、人種によって体感気温も違う。だから半袖の人もいれば長袖の人もいるわけだ。
 現在、米国では次の大統領の予備選が行われている。そこでは「ヒスパニック系」がある候補を指示した、「黒人」が大半を占める州である候補が勝利した、といった選挙結果が報道されている。日本ではあり得ない表現である。日本の選挙の場合、「無党派層」や「何らかの支援団体」の得票があったといった表現で選挙の勝ち負けを分析する。そこには「人種」といった概念は皆無だ。

 このように、多民族国家と日本のように多民族とは言えない国家では、起こり得る事象がまったく違う。先に述べたようにカセットテープが2、3種類しかないのも各人種ごとにターゲットを絞り込み、それに応じたテープを販売するなど意味がなく、かつ無理な話であり、結局、どんな人種でも買うであろう少ないラインナップで十分となる。そこには薄型カセットテープも必要なかったのだ。しかし、日本の場合、ターゲットを絞り込みやすいため、あるいは購買ターゲットが限定され見えやすいため、逆に多様なラインナップを出さざるを得ない。
 よって、各企業が同一の事業ドメインで、根本的には大きな違いはないが、多様なラインナップを揃えた商品を作り続けざるを得ない国が日本である。コンビニで数ヶ月で陳列商品が大きく入れ替わることもその結果だと言えるだろう。形やちょっとした機能が違うだけでは商品寿命は短くならざるを得ない。いくら周到なリサーチを行っても当たりはずれが多いからだ。しかし、米国では多様な人種が存在しているため、必要な機能さえ十分に付加されていればラインナップを増やす必要もなく、かつ商品寿命も長くなる。

 逆に、ヒットすれば、誰しもが飛びつく。これも日本の特徴だ。このように、多様かつ似た商品を頻出せざるを得ない日本、そして、一つでもヒットすれば、その規模がとてつもなく大きい。これが一つの日本人の社会性と私は思う。
 まさに、先に引用した「ギョーザ器具」の瞬間的な爆発的売上は日本人の特性を現している。そして、「冷凍ギョーザ」と聞いただけで、どんな商品でも不安視する点も日本人の特徴の一つだろう。

 これが日本人特有の「横並び行動」そのものだと私は考える。

 また、少し視点を変えよう。我々が今回の騒動で学ぶべき点、忘れてはいけない点だ。

 自動車は便利である。しかし、事故の可能性は飛行機と比較すればとてつもなく高い。それでも多くの人々は自動車に乗る。なぜなら、自動車の危険性よりも利便性を選んでいるからだ。
 電車の安全性は高い。少なくとも自動車事故の件数とは比較にならない。飛行機も同様だ。だから、電車も飛行機も人々は利用する。事故の危険性よりも利便性や安全性を人々は買っているわけだ。ただ、大規模な電車や飛行機事故が発生した場合、一時的ではあるが電車や飛行機の利用を人々は避ける。利便性や安全性よりも危険性を人々が認識した瞬間にこのような事象が生じる。いくら自動車事故が多発していても他人の世界でしかない認識が電車や飛行機事故の場合は、他人事でなくなる。

 中国産の冷凍ギョーザは、今まで安全性も利便性も付加されていた。だから人々は買っていたのだ。それが、中国産であろうと日本産であろうと「安価で手間のかからない冷凍食品」という認識が人々の根底にあり、冷凍ギョーザは買われていた。しかし、今回の中国産冷凍ギョーザ騒動で危険性という認識が安全性や利便性という認識をはるかに超えた。その瞬間に「中国産冷凍ギョーザは危険」=「中国産の冷凍食品は危険かもしれない」=「日本産なら大丈夫だろう」という連鎖が生じた。

 そして、先に述べたように、日本人特有の「横並び行動」がさらにこの連鎖を増長させたと私は考える。

 過去から中国産の食への不安は存在していた。しかし、中国産の農産物や食品を避ける日本人は少なかったはずだ。そして、中国産を避けようにも、外食産業や業務用など、どれが中国産でどれが日本産かわからないという現実もあった。日本の食産業が中国産に頼らざるを得ないという状況もあった。
 しかし、中国産の農産物や食品は危険であるという認識が、今回の騒動で利便性をはるかに超えてしまった。その結果が、「手作りギョーザ」であり「国内産への回帰」となって現れている。

 換言すれば、食品だけでなく、どのようなモノに対しても危険性という認識が利便性や安全性を超越した際に、売れなくなるということだ。今回はたまたま「中国産」であった。しかし、特定の企業の商品が利便性よりも危険性が増した際には売れなくなる。そして重複になるが、日本人特有の横並び行動が一挙に生じ、安全性や利便性だけでなく、商品や企業の命である「信頼」を失う結果となる。
 今回の騒動を「冷凍食品業界」で起こった事件と単純に認識しては駄目だと私は思う。安心感や使いやすさを提供していると考えている企業・商品いずれにおいても、そこに何らかの形で危険性が生じ、それが安心感や利便性を超越した時、瞬時にして日本人特有の横並び行動によってモノは売れなくなり、信頼を失ってしまう点を忘れてはならない。

 今一度、各企業は、今回の中国産冷凍ギョーザ騒動を違った視点から考え、見直すべき点が無いか確認する必要性があると私は考える。

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2008.02.08 Friday | 時事問題への思い | comments(0) | trackbacks(1)

世界同時株安:庶民の気持ちと政治家や官僚の気概の乖離に思う

世界同時株安

 まもなく私がいる京都市では市長選が実施される。

 過日、我々の製品を集荷に来た宅配便のドライバーに聞いた。

「今度の市長選、選挙に行かれますか?」と私。
「ここまで腐りきった政治では、誰がなっても一緒でしょう」とドライバー。

 宅配便のドライバーは基本的に年中無休だ。もちろん交代で休みをとっているとしても年末はクリスマスプレゼントやお歳暮、そして正月にはおせち料理の配送といった感じで休む暇が無い。
 換言すれば、取り扱う荷物の量で、景気や世相が体現できる職種ともいえる。景気の移り変わりを良く知っていた一昔前のタクシーの運転手のようなものかもしれない。

 顔見知りで毎日のように会う宅配便のドライバー。彼の顔つきや行動を見ていれば、繁忙期なのか、一段落した時期なのかがすぐにわかる。朝から深夜近くまで働く彼。先に書いたように景気や世相を毎日、肌で体感している彼の一言は、ある意味、一般庶民の声を代表しているとも言えるだろう。

「社長、こんなに政治が腐りきっていている中で、市長が変わったところで、私の生活が良くなると思いますか?」という彼の一言。

 私もそう思う。京都の市長が誰になろうと、私の生活に大きな変化はないだろう。そして我々の会社にも大きな変化はないだろう。

 少し視点を変えてみる。生活に影響があると思われる昨今の世界同時株安についてだ。

 さらに注視しなければならない「世界同時株安」。結果や状況次第で日本の景気や物価に大きく影響するため、我々の事業にも影響がある。
 もちろん大企業程の影響は無いとしても、ニッチかつ定価の無い事業展開をしているため、お客様の財布・マインド次第で見積価格や最終的な価格を下げざるを得ない事態が皆無とはいえない。原油高については既に私の会社でも少なからず影響を受けている。

 そんな中、一人の政治家が恐らく、日本人全員を敵に回したような発言をした。少なくとも私には到底理解できない発言である。
 以下、「鳩山兄弟、80億失うも危機感ナシ? 同時株安」政治も‐政局ニュース:イザ!」から一部引用する。
 世界同時株安で顔面蒼白(そうはく)の一般投資家も多い中、現閣僚で資産トップの鳩山邦夫法相(59)が22日、株価下落で「40億円損した」と告白。法相は、「兄も40億円損してる」と付け加えたが、これに兄で民主党幹事長の由紀夫氏(60)が、「(閣僚なら)対策の必要性を言うべき」と猛批判している。

 「友人の友人がアルカーイダ」発言など、何かと物議を醸す発言の多い法相だが、22日の閣議後会見で、閣議中に株安対策が話題となったことに触れ、自ら「資産公開を基に試算すると『40億円損した』とか、そんなことばかり言われている」と記者団に語り、苦笑いを浮かべた。

 私はこの報道をテレビで見ていた。法相が記者団に喋り、記者団の笑いを誘っていた。笑うほうもおかしいとは思うが、笑わざるを得ない状況なのだろう。

 「40億円損した」と軽々しく言うことに庶民は反感を覚えると法相は思っていなかったのだろうか。恐らく、彼の頭には庶民感覚など皆無であり、リップサービスの一つのようなものだったのだろう。
 まさに庶民と政治家の感覚の極めて大きな乖離の最たる例といえるのではないだろうか。宅配便ドライバーが政治に興味も期待も失くして当然である。

 一般庶民、何の利権もしがらみもない庶民にとって、もはや政治・政治家は無縁の存在。逆に過去から現在まで利権にしがみついていた人々にとっても政治や政治家は頼りにならない時代になってきていると私は考える。しかし頼る人がいないため政治家に頼らざるを得ない人々が、まだ存在している。きつい物言いかもしれないが、今まで「自助努力をしてこなかった人々」と言わざるを得ない。
 カネと票が欲しい一部の政治家。責任逃れ、自己保身、そして天下り先確保のために奔走する一部の官僚。そして自助努力をしてこなかった一部の人々。これら三者があいまって迷走する日本をさらに悪化させ、短期的な政策、みせかけだけの政策がこれからも続けられていくのだろう。

 私の親戚に官僚がいる。あるところで審議官を務めている。彼は親戚の不幸があっても駆け付けられないほど多忙を極めている。政治家の動きに右往左往しながらも毎日、深夜まで仕事を続けている。もちろん週末にゴルフなど行っているはずもない。そんな彼が上司ではないとしても、法相の発言を聞いたとしたら、一瞬、唖然としただろう。あるいは、「またか、もうやめてくれ」と感じたかもしれない。
 私が懇意にしている政治家も、地道に地元の声を何とか国政に反映させようと私欲を忘れ努力している。

 しかし、庶民感覚を失った政治家、そして国民のために存在していることを忘れた官僚がいることも事実だろう。こういった政治家や官僚の「絶対数」が増えている共に、これらの一部の政治家や官僚の気概と庶民の気持ち・感覚が過去よりもかなり大きく乖離しているように私は思う。

 この国に明るい未来はあるはずだ。

 しかし、明るい未来を実現するためには、誰に頼るわけでもなく、我々庶民一人ひとりが、開拓していくしか今は解決策は無いと私は考える。

 そして多くの人々が誰に頼るわけでもなく、自助努力で日々を過ごしていると私は考えている。そうせざるを得ない状況にまで日本は来ている。
 これら多くの人々の努力に対してこれ以上、一部の政治家や官僚は邪魔をしないで欲しいと私は切に願う。

関連・参考書籍

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2008.01.24 Thursday | 時事問題への思い | comments(0) | trackbacks(0)

米国大統領選に思う:私の留学体験から

米国旗

 私が米国のビジネススクールで学んでいた頃、ちょうどクリントン前大統領が選出された時だった。現在、次の米大統領選の候補者指名に向けて予備選などが実施されているが、クリントン大統領が選出されるまでの一部始終を米国で見ていた。日本では得られる情報は限られているが、米国では様々な人々の応援演説などすべてが中継され、米国の政治家の演説のうまさに感動した記憶がある。

 最初のビジネススクールはワシントンD.C.にある「The George Washington University School of Business」(以下、GWU)で学んだ。米国の首都だけにホワイトハウスなど様々な公的施設が周辺にあると同時に、多くの人々が日本車(ホンダが圧倒的に多かった)を利用していた。そして日本人も多かった。
 ビジネススクールではまず一年間、マーケティング・会計・経営戦略などビジネスの基礎を学ぶ。その後、二年目に自らの専門分野を見つけ、徹底的に学ぶ。しかし国際経営を学びたかった私には、GWUでは本当に学びたい分野・教授が見つからなかった。

 そこで、米国中のビジネススクールを調べ、「International Business」で全米ランク1位のアリゾナ州にある「Thunderbird School of Global Management」に編入した。東海岸にあるワシントンD.C.から西海岸にあるアリゾナ州まで10日ほどかけて車で大陸横断した。
 ワシントンD.C.とまったく違い、アリゾナでは、いわゆる米国車が圧倒的に多かった。もちろん留学生以外の日本人は皆無と言える状態だった。典型的なアメリカの州の一つと言えるかもしれない。そんな状態で私のアリゾナでのビジネススクール生活は始まった。

 大学の寮ではなく、私は近くのコンドミニアム(日本でいうところのアパート)に住んでいた。もちろん日本人は私一人で、多くは白人だった。

 私が大学から帰ると、コンドミニアムに住んでいる子供たちから小石を何度か投げられた。また、私が部屋にいる時も窓に小石が投げられる音がした。恐らく、コンドミニアムの中で唯一、肌の色も外観も違う人種が存在していることが、子供たちにとっては興味の対象になるのかなと、当初は軽く考えていた。もちろん人種差別という言葉も考えたが、日本人である私が他国人になることは無理な話であり、また、小石の一つや二つが投げられても身の危険を感じるわけでもなく、コンドミニアムの管理人に苦情を言うことも無く、生活を続けていた。

 しかし、ある日、大学から帰った私にとって、到底、耐えることができない事態がついに発生していた。

 部屋のドア一面すべてにケチャップとマヨネーズが塗られていた。そして大量の小石がドアの前に投げつけられていた。ドアのノブを開けようにもそこにもケチャップとマヨネーズが塗りつけられており、中に入ることもできない。

 米国滞在時に初めて身の危険を感じた瞬間だった。「そこまで私は嫌われているのか、早くここから出て行けというメッセージなのか」と私は感じた。そして、コンドミニアムの管理人に現状を見てもらい、ようやく私は部屋の中に入った。
 コンドミニアムの管理人は、「今後、何かあれば注意する」という一言だけを残して去っていった。私は即座に引越することを決意した。数十世帯は暮らしているコンドミニアムという空間で、私は嫌われ者だったのだ。原因が私自身の性格や態度にあるのか、それとも肌の色や外観が違うからなのか。原因は後者だろう。

 私は、生まれて初めて「人種差別」というものがまだこの国に明確に存在していることを理解し体験した。

 さて、現在、米国では大統領予備選の最中である。初の女性大統領、あるいは初の黒人大統領、いずれかが生まれる可能性がある。まだまだ、結果はどうなるかわからない。日本と違い、大統領選は複雑であり長期戦でもある。
 ただ、今まで述べたような私の体験・考えが米国に今もまだ存在しているのか、それとも「人種」や「肌の色」などの違いを超越した「変革」を米国民は望んでいるのか、私にはわからない。そしてそれらがどれだけ選挙戦に影響しているのかもわからない。

 いずれにせよ、初の黒人大統領が現実となった時、米国民は本当の意味での「変革」を望み、「変化した」と言えるのではないかと私は考える。

 これからの米国大統領選に、今まで述べたような視点からも注目したい。

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2008.01.21 Monday | 時事問題への思い | comments(0) | trackbacks(0)

佐世保銃乱射事件:犯行動機を詮索することがそんなに必要か?

佐世保銃乱射事件

 過日、長崎県の佐世保市で発生した銃乱射事件。発生当初、特に翌朝になって容疑者が自殺と言う形で発見される前までは、様々な犯人像についてメディアなどを通じ、いわゆる識者・コメンテーターといった各位がいろいろと話していた。
 
 その後、警察の捜査が進むと共に、警察だけでなく、メディア独自の取材などで、様々な角度から犯行の動機などが報じられている。
 私は、犯行の動機を報じることに反対はしない。ただ、今の日本は残念ながら、興味本位の風潮に走りがちではないかと考える。興味本位の詮索だけは許せないともいえる。

 例えば「J-CASTニュース : 佐世保銃乱射事件 「ストーカー犯罪」なのか」の一部を引用する。あえて興味本位志向のメディアの一つと私は考えているJ-CASTニュースでの引用だ。

 このように、容疑者本人の口から犯行動機が語られることはなくなってしまったが、事件から3〜4日が経過した今になって、関係者の口から、その動機を示唆する容疑者の行動が明らかにされつつある。

 早い段階で、これに言及したのが「夕刊フジ」で、07年12月17日、「被害女性に失恋し暴走?」という見出しで、馬込容疑者が、10月頃から倉本さんが勤務していたスポーツクラブに頻繁に通うようになったことを指摘。その上で、近隣住民の声として

 「(馬込容疑者は)それまではボサボサの長髪で目つきも悪く、いつもムスッとしとったのに、10月ごろから顔色が良うなって、いつもニコニコ髪もキレイにセットして、こざっぱりとして格好で、毎日のようにピカピカの新車で(スポーツクラブへ)出かけていきよった」

 さらに、別の地元有力者の声として

 「あんなに豹変したのやから、やっぱり好きな女ができたとしか思えんかったね」

 との声を紹介し、倉本さんへの一方的な感情が事件の背景にあるのではないかとの見方を示した。

 J-CASTニュースのこの記事によると、表現さえ違うが同様の見方で報じている他の大手新聞もあるとしている。

 今回の銃乱射事件では「銃の取扱や規制」についても議論がなされている。そしてこの議論は、今後、実効性があるかはともかく、何らかの形で変化を生み出すだろう。これらの点については、私は異論はなく、専門的知識も持ち得ない。

 しかし、一つだけ言いたい。

 犯行動機を様々な角度から類推し、様々なメディア・媒体で報じ続けることに意味があるのだろうか。今回、犠牲者になった水泳インストラクターの女性はまだ26歳だ。これから様々な人生を歩む可能性があったはずだ。しかし、数発の銃弾が瞬時に、その人生を消し去ってしまった。

 もし、私の息子や娘が同じような事件に巻き込まれ、考えたくも無いが残念な結果を迎えたとしよう。
 親である私は、恐らく、一定期間は見知らぬ外部とのコンタクトを一切、遮断するだろう。なぜなら、ノイズにしか思えないからだ。

 メディアが、近所の方々や周辺を取材し、被害者家族やその関係者の方々が、まだまだ心が落ち着かない不安定な数週間の間、犯行動機の「詮索」が続く。他に事件が無ければ、さらに詮索は続き、そのことが全国に報じられ、紙の媒体など、容易に消すことができないものが一生涯、残る。

 本来、引用することさえ躊躇した先の引用記事。

 引用記事が、もし被害者となってしまった自分の子供のことに関したことならば、私自身はどう思うだろうか。恐らく「怒り」のみが身体を駆け巡るだろう。あるいは「晒し者にされている」と思うだろう。この気持ちは犯人に対してではない。詮索しその結果を書いた相手に対するものだ。いくら「犯行動機」を明確にしてもらったとしても感謝の気持ちなど存在するはずもない。

 犯人に対する怒りは、それこそ直接的であり、もっと強いものだ。殺意に近いものがあるかもしれない。
 ただ「犯行動機」が明確になっても、失われた命は帰ってこない。誰しもが明確に分かっていることのはず。

 今まで、残念な事件が様々な場所で、様々な形で発生してきた。

 ただ、今までも行われてきた、興味本位の「犯行動機の詮索」は、もうやめるべきだと私は考える。不明瞭で日々変化する犯行動機を世間が知ったところで、誰にとって何の意味があるだろうか。それとも何か意味があると考え、今も昔も詮索し続けているのだろうか。
 あるいは、報道を受ける側である一般庶民の心も麻痺しているのだろうか。
 先に引用したことを書かれた、報じられた当事者・犠牲者に詮索する側が実際になったとしても、詮索する人間は、被害者や関係者の気持ちを理解できないのだろうか。

 今回のエントリは、少し感情論が入っており、論理的な部分が皆無に近いが、理解いただける方も多数おられるのではと、私は確信している。

 今一度、いや、一度で良いから考えて欲しい。「詮索する」という下品な行為を。「詮索する側」そして、その行為を報道という形で見る庶民の方々も考えていただきたい。

 これ以上、そしてこれからも、事件でずたずたになった方々の心を亀裂させないために。

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2007.12.18 Tuesday | 時事問題への思い | comments(2) | trackbacks(1)
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ティファニーのテーブルマナー
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私がホテルマン時代に上司からこれだけは読めと言われた、テーブルマナーを知る基本の書籍。

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