ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

 サン・アクト株式会社は京都で、環境や緑化だけでなく、
深く多様な衣食住空間をできる限り発信することを目指す企業です。
 ベンチャー企業社長である、私自身が語る挑戦と苦闘の日々。
また、妻と5人の子供達の歩み、そして様々な方へ、私なりの思いをこのブログで発信続けていきます。
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2018.08.01 Wednesday | - | - | -

全力疾走しない子供、させない親が失う人生にとって大切なもの

疾走

普通の企業がやっていることすらできない行政

 2000年から2006年までの過去3回の国際学力調査(PISA)で日本は順位が下がり続けている。いわゆる「学力低下」というものだ。この結果をふまえ、行政では学習指導要領を再検討している。しかし従来同様、学識経験者と呼ばれる専門家の意見と役人のペーパーが主導権を握る机上の論理が展開されている。
 企業経営に例えれば、「学力低下」は「売上低下」だ。通常、現場の営業マンが、なぜ売上が低下しているかを消費者にヒアリングし、その結果に基づき、顧客ニーズに合致した商品を様々に模索し、上司や役員が最終決定し新たな商品を生み出し売上回復を目指す。現場、消費者の声を実際に聞かない限り、本当に売れる商品が生まれるはずはない。

 この視点で考えれば、教育現場における最終消費者は「子供」であり、間接的な消費者が「親」となる。そして違和感があるかもしれないが教育という商品を売る営業マンが「教師」となる。
 しかし、教育については、いつもの如く机上の空論のままだ。日々、変化していく「子供や親の意識・ニーズ=消費者の意識・ニーズ」、そして、実際に消費者と日々、対峙し、商品を売っている「営業マンの苦労=先生方の本音」などは、子供や親、そして教師に対して実際にヒアリングしない限り、「良い商品=良き教育」など生まれるはずがない。いくら学識経験者で元教師の知恵を借りたとしても、かつ子供と触れ合う機会が皆無に等しい役人に想像の世界だけで売れる商品を生み出すことは不可能に近い。

 もちろん、子供にどうやってヒアリングするのか、果たして明確に答えられるのかといった疑問を抱かれる方もおられるだろう。しかし、一般の企業、特に子供向けの商品を販売している企業は、子供と直接、触れ合い、模索しながら、懸命に売れる商品をつくっている。これは企業努力ではない。企業として当たり前の行為だ。「教育」という大切なものすらこれらの行為を行政が怠っている現状。企業経営の観点からは理解しがたい行為と言わざるを得ない。

ゆとり教育がもたらした混乱

 過去から「知識偏重の詰め込み教育」は批判の一つとなっていた。それに呼応するため「ゆとり教育」、いわゆる「総合的な学習の時間」が2000年から段階的に始められた。

 百科事典で例えてみよう。2000年以前の百科事典は100頁。第一章から第六章まであり、小学生達は6年間を要して百科事典に書かれた知識を得る。これが学習指導要領であり教科書と考えればいい。そして百科事典に書かれた内容をいかに子供たちに「理解させやすく教えるか」に教師の力量が問われていた。
 そこに突如として「ゆとり教育」が始まった。百科事典100頁の中で80頁が従来通り、しかし残りの20頁は何も書かれていない「白紙」だ。その白紙に教師と子供たちは何かを書き込まなければならない時間が唐突に出現した。そして何を書き込むかについては学校に委ねられた。学校ごとに地域の文化や特性などに違いがあるという理由からだ。

 教師生活数十年のベテラン教師だったとしても白紙の百科事典に何を子供たちに書かせれば良いのか初めての経験に大きな戸惑いがあっただろう。そして、今まで白紙の百科事典を見たことがない子供たちにはさらなる困惑があっただろう。ここに「ゆとり教育混乱」の大きな要因がある。
 「いかに百科事典の内容をわかりやすく教えるか」というスタイルから「百科事典20頁分そのものをつくる」という大転換であり、教育現場が混乱することは開始当初からわかっていたはずだった。

 しかし、教育現場の混乱や悲鳴ではなく、PISAという社会的背景も教育システムもそれぞれ違う他国同士の調査結果を根拠に「学力低下」をやっと認識し、「ゆとり教育」の見直しが始まった。企業で例えるならば、現場の営業マンや消費者の声を無視し、コンサル会社から提出されたレポートを見て、あわてて社外取締役を招聘し、対策を練るようなものだ。

子供や親の意識の大きな変化

 私の長男の話をする。

 我が長男は、ここ数年間の小学校の運動会の活躍を見る限り、走ることが特に苦手ではないが得意ともいえない。しかし彼は小学校対抗の長距離走大会など、様々な「走る競技」に小学校代表の一人として選ばれ、いつも全力で走っている。
 私は、長男よりも短距離も長距離もタイムの早い小学生が存在するはずだと思い、長距離走大会を観覧していた同級生のお母さんに素朴な疑問を投げかけた。そして残念な答えが返ってきた。

「なぜ、いつも長男は小学校代表に選ばれるのでしょうか?」と私。
「大会前に練習するでしょ。そうすると塾に行けないから、代表選考の時、わざと全力疾走しない子供がいるんです」と同級生のお母さんは答えた。

 大会前は放課後に練習する。しかし、放課後は塾に通わなければならない日がある。大会参加を選ぶか、塾通いを選ぶか。後者を選択するために「全力疾走しない」という少なくとも私には信じられない事実がそこには存在していた。

 私自身の話をする。

 私は、小学5年生の頃から塾に通った。私立中学を受験するためだ。ただ、なぜか足が速かった私は、小学校対抗の大会だけでなく、府や市の大会の選手に選ばれた。そして大会前には週に二回程度の放課後の練習に参加した。
 当時の私は、常に「全力疾走」した。全力で走ることが当たり前であり、力を抜いて走るなど到底、意識の中に無かった。もちろん、塾に通う時間が減るなど考えもしなかった。親は内心、塾に通う時間が減ることに僅かばかり懸念を持っていたのかもしれない。しかし、何も言わず、逆に大会に参加している私を応援してくれた。

全力疾走をしないと決めるのは誰か、そしてその背景は何か

 先に述べたように、少なくとも私の子供が通う小学校では、「全力疾走」しない子供が存在するようだ。その直接的な要因は「塾に通う時間を確保する」ためだ。ただ、塾に通うために「子供自ら」が全力疾走しないと決めたのか、それとも「親が全力疾走するな」と子供に言ったのか不明だが、後者の可能性が大きいだろう。
 逆に、子供自らが塾に通うために全力疾走しないと決めたのであれば、私としては、世間の子供はここまで変化したのかと驚くと共に残念に思わざるを得ない。

 遠因として「ゆとり教育」が関係している可能性はある。先に述べたように小学校6年間で学ぶべき百科事典は合計100頁だ。20頁は、ゆとり教育で白紙の状態。しかし、ある私立中学は合計80頁をすべて完全に暗記することを求める。また、合計80頁に書かれた情報を網羅的に駆使する能力を要求する私立中学もある。そして、私立中学の大半は白紙の20頁を問題視していない。なぜなら先に述べたように「ゆとり教育」は学校独自で内容を決めることが基本であり、私立中学は問題を出そうにも出せないからだ。
 これらの背景があるにも関わらず、白紙の20頁を埋めるため、ゆとり教育は続けられた。受験に関係ない授業が存在し続けたのだ。受験・合格が最大の目標である親としては「ゆとり教育」など興味も無く、その「失われた無駄な時間」を何とか塾で補完せざるを得ないと考えるのは当然だ。それでなくとも「ゆとり教育」が開始される以前から小学校の授業だけで、百科事典合計100頁を完全に暗記することなど不可能と考えていた親は既に存在していた。だから30年以上も前の私の小学生時代にも「学習塾」というものが存在していたのである。

全力疾走をしない、させないことで大きなものを失う

 今後、「ゆとり教育」は縮小の方向に向かうだろう。しかし、私は「ゆとり教育」の考え方については否定しない。教育現場・親・子供の求めるものと行政が求めたものの大きな乖離が問題なのだ。行政が「企業努力」さえすれば乖離は解消されていくと考える。

 ただ、どうしても理解できないことは、塾に通う時間が減るかどうかはともかく「全力疾走」をしないという事実だ。「全力疾走」し、放課後の練習に参加することで塾に通う時間が減ることを私は否定しない。そして、それが原因で受験に失敗する可能性も否定しない。
 ただ、放課後の練習が直接の原因で受験に失敗する可能性は極めて低いと思う。塾に通うことができない期間が半年も続くのなら話は別だ。しかし、放課後の練習は数週間であり、それも一週間に二度程度だ。

 親が指示したのか子供自身が決めたのか、どちらでもいい。ただ「全力疾走しない」という気持ちを持つこと、そしてそれを実際に行動してしまうことから失うものの大きさは、極論すれば受験で不合格となることで失うことよりも大きいと私は考える。

倫理観、価値観という人生にとって最も大切なもの

 小学生に価値観や倫理感を求めることはできない。親が教えてもなかなか理解できにくい年齢でもある。小学生から中学生になり、そして大学生になる過程で、学校や教室で学ぶ以外のまったく異質の経験を重ねていく。その経験や出来事にどう対処するかが、個々が持つ倫理観であり、価値観だ。自ら失敗を重ね、あるいは誰かの振る舞いを見習い体得していくものだ。

 「やってはいけないこと」・「こういう時はこうするべき」という行動・判断基準は知識でも知恵でもない。まさしく社会を正しく生き抜くための自らの規範だ。いくら知識が人より数十倍多くとも、その知識を正しく使うことができる規範が無ければ、間違ったことをしてしまう。いくら有名大学を卒業しても、大人という社会に出れば、過去に教えられたことがない事柄に何度も遭遇する。そこでどう対処するかは個々の規範が左右する。それほど人間にとって倫理観や価値観は重要なものであると私は考える。
 極論と思われるかもしれないが、小学生という年齢だとしても「全力疾走しない」という気持ちを持つこと、そして実際に行動するということは、明らかに間違った倫理観、価値観、行動規範だと私は考える。そして、一度、間違った規範を犯してしまうことで失うものは年齢に関係なく大きく、その考え、行いを誰かが間違っていると教えない限り、似たことを繰り返す可能性は高い。もし、親が「全力疾走するな」と言ったのならば、その時点で親は大切なものを既に失っているのかもしれない。

 狡猾な人間は今も多数、世間に存在している。ただ、彼ら彼女らも、いつか、どこかの時点で最初に間違ったことを行い、それを誰にも指摘されないまま大人になり、人間として通常では理解できないこと続けている。
 まっとうな行動規範を一生、持つことができる人間になることを考えれば、一度くらいやり直しが可能な受験に失敗してもいい。過去に行った間違った生き方だけは、やり直すことができないのだから。

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2008.02.27 Wednesday | 現代の教育について | comments(0) | trackbacks(1)

少し考え方が違うのか、それとも考えそのものが無いのだろうか?

大学コンソーシアム京都

 我々の会社は毎年、インターンを受け入れさせていただいている。

 京都は数十近い大学が連携し、「大学コンソーシアム京都」という名称で財団を立ち上げ、「財団」が中心となり受け入れ側の「企業や団体」、そして送り出す側の「大学生」とのコーディネートをしている。
 そのインターンシップ10周年を記念したシンポジウムが昨日、開催され私も参加した。16時から17時半までがシンポジウム、18時から20時が懇親会というプログラムで、懇親会で名刺交換などで、何か我々の仕事に役立てばと考え参加したわけだ。

 実際に、会場であるホテルに到着したのが17時頃。そして、懇親会が別会場で始まる。開始5分前に懇親会会場に入った私。立食パーティ形式である。交流会や懇親会に何度も参加している私だが通常は開始早々に丸テーブルを囲み、参加者同士が名刺交換を始めている風景が普通だが、多くの参加者は会場周囲に置かれた椅子になぜか着席している。
 私はいつも通り、丸テーブルに進み、横にいた方に「何か、皆さん遠慮している方が多いですね」と一言。その後、偉い方が乾杯の挨拶を始められた。しかし、挨拶が長い。手に持ったビールをテーブルに置く方もちらほらと見受けられた。乾杯の挨拶は少なくとも関西では、最初の笑い一つと短めのコメントが鉄則なのだが。

 そして、やっとのことで、パーティが開始。通常は、食事など関係なく、名刺交換すべき相手を探し始めるのだが、残念ながら、周囲を見渡すと、我々には直接、関係の無い学部の大学の先生ばかりであったため、仕方なく食べ物を取りに行った。
 その後、最初に会話をした方としばし歓談。その後、その方が他の方と名刺交換をされているのを発見。我々がお世話になっている銀行の人事部長様であった。「これは挨拶をしなければ」と考えた私は、すぐに名刺交換しご挨拶を。偶然にも4、5年前に我々がお世話になっている支店におられたとのことで、これまた会話が弾んだ。

 しかし、その後、誰とも名刺交換しなかった。最初に会話した方と二人で盛り上がったのである。この方は、社会保険労務士の先生で、いろいろと教えてもらうことが多々あった。しかし、なぜかビールを良く飲まれた。

「えらい、ビール、飲まはりますなぁ(たくさん、ビールを飲まれますね)」と私。
「20時から連れと飲む約束してますねん(友人と20時から飲むんですよ)」と先生。
(だから、今もビールを多く飲むとはどういうことだろうかと、ふと考え込んだ私だった。)

 そうこうするうちに、社会保険労務士の先生(先生と呼ばないでと言われたが)は、私に一言。

「社長、おかしいと思いません、受け入れ先があってこそインターンシップは成り立つというのに、大学も事務局も誰も挨拶に来ませんやん」と先生。
「そうですなぁ、基本的に私らはある意味、お客さんですしねぇ。普通、私がその立場やったら、全員に挨拶しますわ」と私。

 先生に言われ、周りを見渡すと事務局や先生方はそれぞれ集まって歓談。内輪で楽しんでいるようにも見える。

「基本的に考え方が違うんでしょう」と私。
「そうですなぁ、大学の職員や先生はやはり考え方が違うんでしょうねぇ」と先生。

 時計を見ると既に19時半過ぎ。まもなくパーティも終了である。

「社長、壇上に立って、言ってください、これでは駄目と」と先生。
「いや、まぁ、もうよろしいでしょう」と私。
「いや、言ってください社長」と先生。

 社会保険労務士の先生に何度も言われ、人前で話すことやスピーチが好きな私は、7割くらいその気になった。しかし、結局、壇上で叫ぶことも無くパーティは終了。

 いずれにせよ、先に書いたように我々、受け入れ先企業があってこそインターンシップは成り立つ。シンポジウムでは「1000人程度の学生に対して受け入れ先企業は約400社」と報告されていた。まだまだ受け入れ先企業が不足している状態であり、既存の受け入れ先企業は大切にしなければならない(と、私がインターンシップ担当者であれば考える)。当然のことだろう。
 ただ、大学の先生方、そして大学の職員が出向されて成立している事務局の方々には、そのような考え方はあまり無いのか、根本的に無かったのか、積極的に受け入れ先企業に挨拶している方はおられないように見えた。少なくとも私と先生に誰も挨拶には来られなかったことだけは事実である。

 ちなみに、2年前は8名程の学生を私の会社は受け入れている。6年ほどインターンシップ受け入れ先企業として続けさせていただいているが2年前は大変だった。何と言っても全員、学部が違ったのだ。この事実も事務局の方も覚えておられるはずで、かつ私が今回、参加していることも把握しておられるはずだ。
 そうであれば、「あの時はありがとうございました」と一言、あっても良いのでは、と考えながら会場を後にした。もう、来年度はインターンシップ受け入れをやめようかなとも考えつつ。

 そして、今日、夕方、電話が。

「社長、コンソーシアムというところから電話です」と社員の一人。
「はい、繋いでください」と私。

「昨日はシンポジウムにご参加いただきましてありがとうございました」と事務局の方。
「いえいえ、こちらこそありがとうございました」と無難に受け応える私。

「ところで、話は変わるのですが、来年度も受け入れ先企業としてお願いできないかと思いまして」と早速、本題に入る事務局の方。
「はい、毎年のことですから、また資料を送ってください」とあっさり来年度も受け入れることを言明してしまった私。

 これでは、昨晩のちょっとした怒りはどこに行ったのだとなるが、会場で「これではおかしいではないか!」私が叫んだとしても、今日の電話の中身は少し変わったかもしれないが、受け入れをお願いされることに違いはなかっただろう。そして断ることも私はしなかっただろう。
 いずれにせよ、今から、来年度のインターンシップをどうするかを考える必要は無い。ただ、学生も変わらなければならないが、大学の先生方、職員の方も変わらなければならないと私は考える。もちろん、インターンシップを通して学生の意識を変えることは可能だ(この点だけを中心に私は学生と相対している)。
 もちろん、先生方、職員の方の意識を変えることは事実上、無理であり、何もそこまで私が行う必要性も無い。ただ「先生方、職員の方こそインターンとしてインターンシップに参加すれば、私を始めとする受け入れ先企業の本当の気持ちや状況がわかる」のではと考える。

 「社会保険労務士の先生も嘆いておられる」ようだ。先生、またどこかでお会いしましょう。一杯やりながら。

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2007.12.06 Thursday | 現代の教育について | comments(2) | trackbacks(0)

全国学力テストなど気にしなくていい:本物の人物となるために



 43年ぶりに小学6年と中学3年の約225万人が参加した全国学力テストの結果が、昨日10月25日に公表された。地域や学校間の差、ゆとり教育の是非など、様々な議論がなされているように見える。既に遅い、あるいは一過性のような感もあるが。

 私は、最近では「男性講師が児童の舌を切るふりをした件」や、「無理難題を押し付ける保護者」など、現代の教育現場で生じている事象について批判してきた。また私のサイトでは、「現代の教育について」というカテゴリにおいて今まで様々な角度で私なりに思うことを書き続けてきた。
 一方、5人の子供を持つ親として、そして環境教育といった我々の事業の中で、多くの教育現場で努力されている方々と身近に接してきた。また、私が知らない教育分野においても「学力向上」も含め様々な視点で懸命な努力をされている方は存在するだろう。

 そもそも「学力」とは何なのだろうか。少なくとも私には明確な答えを知らない。

 いずれにせよ、「学力」という言葉の意味が曖昧であったとしても、人それぞれの長い人生の中で、「学力」のみが発揮されることは、ほんの一場面にしかあり得ないと私は考える。もちろん、「学力」あるいは「知識」が底力として発揮することについては否定しない。
 よって、ある程度、現場を知っている人間としては、今回の学力テストで判明した「学力の差」などは、教育現場においても、そして子供たちにとっても、長い人生の中では何ら大きな意味を持たないと考える。

 少し視点を変えてみる。

子供たちにとって、「体験」が先か、「知識」が先なのか?
 我々の会社では、過去に大手石油会社の協賛を得て、「環境NPO」と共に「環境教育」を事業として全国で実施していた。

 教育現場ならどこにでもあるサクラをテーマに、保護者と子供たち、そして協賛企業社員が協力し、実際にサクラの回復作業を体験するという内容で「このような感じ」だ。ここで記載していることを引用する。異論のある方もおられるかもしれないが。
 知識からでなく、まず体験から、そしてその体験から知識を得ていくことが基本だ。頭で考えるよりも、まずはやってみる。知識だけでは、みんな同じレベルでしか変われない。だが、体験なら、一人一人、得るものが必ず違う。

 保育園・幼稚園・小学校といった世代の子供たちは、「教室」という空間で「同じこと」を教えられる。もちろん、先生方によって、個々の子供たちに対するアプローチを変えておられる場面もあるに違いない。
 ただ、基本的には、やはり時間的なものなど限界があり「同じこと」を教えざるを得ない状況にあると私は考える。この「同じこと」が「知識」として積み重ねられ、個々の自己変革や人格形成の一部になっていくのだろう。ただ、私は、「知識からではなく、体験から始まる大きな広がり」が重要だと考えている。もちろん、環境教育以外でも適応する場面はあるだろう。

 先に引用したように、知識だけではそれぞれが同じレベルでしか変化できない可能性が高い。体験であれば個々によって得ること、感じることが違う。そして、そこから得られたもの、感じたものなど、多様な分野において知識を持った大人が、その場で子供たちが知りたいと思った情報をすぐに伝えることが可能になると私は考え、実践してきた。
 例えば、子供たちが「サクラの枯れた枝」を見て、触って、自分で枝を折ってみることなどで、それぞれ様々な思いを抱く。ある子供は「なぜ枝が枯れていてもサクラは枯れないのだろう」と考え、ある子供は「この枝で何か工作ができないかな」と考える。またある子供は「枯れた枝もそうでない枝もある。樹木も命があるのだな」とも考える。

 このような多様な考えは、理科でもあり図工でもあり命の大切さを知るきっかけとなる。その問いに対して、我々大人が知っている情報を伝え、その情報を彼ら彼女らなりにそれぞれ知識として体得していくことで、「同じサクラの枝」であったとしても、個々が得る「知識は多様なモノとなり大きく広がっていく」のだと私は考える。

では、大学生、若い世代はどうなのか?
 まず、過日、読み終えた下記の書籍に書かれている言葉を紹介する。以下、最終章である第五章「天命をまっとうして生きる:一人前の大人となるために必要なもの」より一部引用する。

何のために働くのか
何のために働くのか
北尾 吉孝

 節操というのは本当に大事なものです。自分の主義・主張・立場を常に明確にして、何が起ころうともそれを守り抜く。そうした節操を持つためには自分の人生観を明確にしておく必要があります。
 (一部割愛)
 十分な知識や節操を持つというのが見識を身につける一つの前提になります。それとともに、きちんとした倫理的価値観を持つことも大切です。知識や節操、倫理的価値観があって初めて、物事の善悪がわかるのです。そういう判断力を持った人を「見識のある人」というのです。

 ただし、見識があるだけでは、まだ人間として十分とは言えません。
 (一部割愛)
 知識は簡単に得ることができます。しかし、そこで満足していたのでは、到底本物にはなれません。人によっては知識を悪用したりもしますから、そんな知識なら持たないほうがいいということになりかねません。
 やはり知識を正しい方向に使う見識、そして見識を実社会で実行する胆識まで揃って、ようやく人物と言えるのではないかと思うのです。

 このように書かれたものを読んでしまうと、北尾氏がいう「人物」というものになるにはかなり難しいと思わざるを得ない。
 「十分な知識・節操・倫理的価値観」を持ってして「見識がある人間」になることができる。そして、見識を正しい方向で自信を持って実行する胆識を兼ね備えた人間が「人物」となると北尾氏は説いている。

 十分な知識こそ大学時代に「学ぶ」ことであり、ある程度は体得できると私は考える。

 ただ、節操・善悪の判断、腹をくくった実行力である胆識などは、誰かに教えられて得られるものでもなく、経験、体験といったものから得られるものではないだろうか。ここでもやはり、知識ではなく成功や失敗といった体験の積み重ねと周囲の人間の協力の有無によって、個々の「人物」の重みが違ってくるともいえる。
 また、下手に知識が豊富であっても、善悪の判断力が無ければ、マイナスになる可能性もあると北尾氏は指摘している。この善悪の判断力も教えられて得られるものではない。

 このように、社会に出る時期、出た時期の初期においてこそ、それまでに得た知識、体験の内容が問われ、その中身がその後の長い人生を大きく左右すると言えるのではないだろうか。

知識が多いよりも体験が多い方が良い
 私は、1990年代に米国の二つの大学院を経験している。今から15年以上前の話だ。今でこそ「企業買収」で知られた「ゴールデンパラシュート」・「ポイズンピル」などの手法は、大学院時代にケーススタディで既に学んでいた。繰り返すが15年以上前のことだ。
 ただ、いくら「ゴールデンパラシュート」・「ポイズンピル」を知っていても、私はそのような手法に相対したことも無い。しかし私には雲泥の差であり比較するには申し訳ないが、北尾氏にとっては、日常茶飯事の世界だろう。

 ここに「胆識」の有無、大きさの違いがあるのではと私は考える。もちろん、それだけではないだろうが。

 大学院で私は様々なことを学んだ。しかし、経営手法を学ぶ場であり、細かい実務を学んだわけではない。
 帰国後、初めて営業で回った際、「支払い条件はどうしましょう」と聞かれて、何もわかっていない私は「当月末締めの当月末払い」という今にして思えば、不可能な支払い条件を相手先に提示していた。この失敗、恥をかいた経験は未だに忘れることはない。

 知識は頭の中には入り込む。ただ失敗や多様な経験は頭だけでなく心の奥まで入り込むと私は考える。
 だから、知識が豊富な人間よりも、失敗や成功をできる限り経験として獲得していく努力を、若い頃だけでなく、どのような立場、年齢になっても積み重ねていくことが、長い人生の中で「本物の人物」になる一つの近道だと私は考える。

 社会という大海原を漂っているのではなく、乗り切るために。

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2007.10.25 Thursday | 現代の教育について | comments(0) | trackbacks(3)

「無理難題」と思うのなら保護者へも手引きを渡せばと私は思う



 まず、前提として、下記に紹介する記事について、私自身も保護者の態度には、あきれはてていることを明言しておく。

 「asahi.com:「運動会の旅費返せ」無理難題252件公表 大阪市教委 - 社会

 以下、「大阪市教育委員会」に正式なリリースが無かったため、この記事より一部引用する。
 教育活動に支障を来すほどひどい保護者からの苦情や注文の実態を把握するため、大阪市教委が全市立小、中学校を対象に実施したアンケート結果の一部が公表された。「運動会が雨天中止。遠方から来た祖父母の旅費を返せ」など「無理難題」の具体例は252件にのぼった。市教委は集まった実例を材料に教職員向けの手引を作成中で、今年度末の完成を目指す。

(一部割愛)

 中学受験を理由に「子どもの生活リズムに合わせた登下校をさせろ」と求められた▽不登校になった児童の保護者から「教科書は不要になったので、買い取ってほしい」と要求された▽校内で転倒した生徒の保護者から「二度とけがをさせないと念書を書け」と迫られた▽「校則を守るかどうかは生徒の自由。注意するな」と注文された――などの実例が続々。

 手引では、自分の子どもが運動会の組体操でピラミッドの頂点に立つ役になれなかったため、保護者からクレームがあった例を取り上げ、「今まで学校に協力してきたが、これからは考えさせてもらう」という保護者の発言を紹介。「保護者の苦情は自己中心的で受け入れられない」と判断し、集団行動を乱すような言動に断固とした態度をとるなどの対応策を伝授する。

 「運動会が雨天中止となったから遠方から来た祖父母の旅費を返せ」という発想が私には到底理解できない。いや、多くの方がそうであろう。文面から推測するに、「祖父母が学校に旅費を返せ」と言っていないことだけは確かなようであり逆に救われる思いがすることに残念な感もある。

 過日、私は子供たちの小学校の運動会に参加した。隣で観戦していたご家族が、あるやりとりをされていた。遠方からお孫さんを見に来られたおばあちゃんに、子供の母親がタクシー代ということで、お金を手渡されていたのだ。もちろん、おばあちゃんは、最初は断られていたが、とりあえず半額をもらうということで落ち着いたようだった。
 もし、このご家族が運動会が雨天中止となったとして、学校側にタクシー代を請求するだろうか。年に数度しか見ることができない孫の姿を見るために学校へ足を運ぶのである。そこに「孫の姿を見るためのお金がもったいない」という観念は、ほぼ皆無だろう。雨天中止だったとしても、「残念だな、また来年を楽しみにするか」とあきらめるのが祖父母の普通の気持ちだろう。

 「学校に旅費を返せ」と言った保護者の態度は、祖父母の気持ちすら感じ取れていないとも言える。祖父母にとってみれば、「そんなことを学校に言うのか」といった気持で逆に残念に思うに違いない。
 他人の、それも親族の気持ちさえ感じることができない保護者は、自らの子供の気持ちも敏感に察することなどできるはずもない。そのような保護者であれば、「旅費を返せ」という「無理難題」だけではなく「非常識」な様々な態度を学校側に当然の如く権利として主張することも想像に難くない。

 「二度とけがをさせないと念書をかけ」・「組み体操のピラミッドの頂点に立たせなかったとは何事か」といった学校側にとっては「クレーム」、そして残念ながら保護者にしてみれば、「自分にとっては当然なる正当な保護者の権利」といったことについては、もう議論する気持ちすら生じない。

 「世間ずれ」とは正にこのことを言うのではないだろうか。

 私には、大学の事務方に勤務している友人がいるが、大学でも同様の事象は発生しているという。「世間ずれ」と「親離れ・子離れ」できない人々は、残念ながら、昨今、異常に増えていることだけは、他の報道や実際の友人の話からも事実であろう。

 今回、なぜ、このようなことが起きているのかについては議論しない。

 なぜなら、教育委員会の対応に疑問があるからである。「市教委は集まった実例を材料に教職員向けの手引を作成中で、今年度末の完成を目指す。」という点であり、かつ「対応策を伝授する」のみという点だ。

 企業の立場で考えてみれば、お客様のクレーム対応集を企業内で作成し、社員に徹底させる、ということは理解できる。私も最大で1日5万人ほどのアクセスがあった「通販サイト」を運営しており、様々な問い合わせを多数、頂戴している。問い合わせ内容は多種多様であり、クレームではないが、問い合わせ対応マニュアルの必要性は、もちろん否定しない。

 しかし、今回の教育現場の件は、いくら教職員向けに手引きを作成し対応策を伝授したところで解決するものではないだろう。記事のタイトルではあるが「無理難題」と教育委員会も認識しているのであれば、あるレベルで「常軌を逸している保護者」が存在していることを暗に認めていることと同様である。
 完全な解決策ではないかもしれない。ただ、「教職員向けの手引きを保護者にも公表する」、あるいは「保護者向けの手引きを作成する」など、もっと踏み込んだ対策を実施しなければ何も変わらないだろう。少なくとも、教職員向けの手引きだけを作ったところで、保護者からの「クレーム」が減るとは私には到底、思えない。

 まずは、何よりも「教職員向けに手引きを作る必要性に迫られた」という時代になってしまった背景を明確にし、その理由を教師ではなく教育委員会各位が、保護者に直接、対峙し、説明することが先決ではないかと私は考える。教師の現状の対応では限界であるから手引きを作り伝授すると教育委員会各位が言っているのである。今こそ教育委員会自らが言うだけでなく、行動で示す時ではないだろうか。
 理想論と思われる人、既に遅きに失している、既に対策は講じられているという方もおられるかもしれない。しかし私は、教育現場の方も含め、地道な「対話」という努力を積み重ねていくことだけが唯一の解決策だと考える。
 もちろん、まずは親が変わらなければならないことは確かだが、変えようにも容易には変わらない一部の親が既に存在しているのである。

 「教育委員会にそこまでの職責は無い」などと言っていられる時代ではない。そして教育委員会各位もそうは思っておられないと心より願いたい。

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- 「ゆとり」を取り戻すために
- 現代の教育について
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2007.10.17 Wednesday | 現代の教育について | comments(18) | trackbacks(0)

なぜ、こんなことをするのだろうか、怒りを超えたものを覚える



 教育現場で起きたこと。事件、いや、犯罪と言っても良いだろう。

 以下、「「男性講師が児童の「舌切る」ふり ショックで入院、「のりたま君」の仇名も」事件です‐事件ニュース:イザ!」より一部引用する。
大阪府高槻市の市立小学校で、3年生のクラス担任の男性講師(52)が授業中に男子児童の舌をハサミで切るふりをするなどし、ショックを受けたこの児童が一時入院していたことが23日、わかった。同級生の保護者から指摘を受け、校長と講師が児童の両親に謝罪した。
 市教委によると、講師は6月上旬、授業中の私語をしかる際にハサミで児童の舌を切るふりをした。また同月下旬、児童の口の周りにご飯粒が付いているのを見つけて「のりたま君」とあだ名を付け、同級生もからかうようになった。

 短い記事であり、詳細な背景が不明で他にも何かあるかもしれないが、あえて記事を信じ、記事に書かれた内容について私なりに思うことを書くこととする。

 教師ではないとしても、52歳というそれなりの人格形成を伴っているであろう年齢の講師が、クラスの子供に対し、舌をハサミで切るふりをしたとのこと。授業中に私語をやめさせるだけのために。
 そして、些細なことを見つけ、「のりたま君」とあだ名を講師自らが付けたとのこと。

 私も小学生の時に私語を叱られ、「教員室」の前に一日中、立たされていた経験がある。中学生の時も同様に廊下で半日以上、立たされていた経験がある。
 ただ、何か失敗しても、どんなに恥ずかしいことを自らがやったとしても、それを「からかい」の対象としてあだ名を先生方から付けられたなど一度も無い。

 もし、子供が言うこと聞かない時、静かにしない時、私は自分の子供や子供の友人の舌にハサミを近づけるだろうか。考えることさえなく、かつやるはずもない。どんなにうるさくとも、またどんなに言うことを聞かない場合でも。

 今回の子供の教室内での私語がどの程度だったのか私にはわからない。ただ、恐らく多くの方が同意されると思うが、どれほど私語が酷くとも「舌をハサミで切るふり」をすることは許される行為ではないだろう。
 3年生という、まだまだ人格形成途上の子供の傷は一生、消えない。もしかすれば、今後、ハサミを見るだけで、何もできなくなるかもしれない。それほどの行為だったと私は考える。

 もし、私の子供が同じようなことを学校の先生からされた場合、謝罪だけでは済ませないだろう。私の社会的立場など忘れ、何かを起こすだろう。

 再度、紹介した記事より、引用する。私も仕事柄、教育委員会の方にはお世話になっているが、今回だけはあえて言わせていただく。
市教委の久保正明・指導課長は「不適切な言動で児童の心を傷つけることのないよう、学校への指導に努めたい」としている。

 言う内容が違うのではないだろうか。不適切な言動ではなく、同級生から見れば、彼をハサミで切りつけかけたような行為は、犯罪にも等しいと私は考える。なぜ、辞めさせないのだろうか。教育委員会の評価が下がることを避けたいだけという理由からか。

 他人事のような、保身に走る教育委員会のコメント。

 再度、言うが、もし私の子供だけでなく、彼ら、彼女らの友人が、同じようなことに遭遇、経験した場合、私は社長と言う立場に関係なく、何かを起こす。
 そして、逆に自分の子供たちや友人たちが同級生に、同じようなことをした場合も、私は毅然とした態度で、何が悪いのかについて、明確に話すことを断言しておく。

 私語があったとしても、今回の「事件」での3年生の彼の心の傷は一生、消えない。

 誰がどうしてくれるのか。もちろん、教育を再生しようと叫ぶだけの政治家には、無理なことだけは明確であり、ここにも虚しさを感じる。
 そして、このような事件が「氷山の一角」では無い可能性があることについても虚しさを感じる。

 私の理解を超えた事件であり、かつ日本の将来を今まで以上に暗く感じさせる事件だ。

 できることなら、微力ではあるが我々の事業を通じて、少しでも次の世代に対し、明るい将来が見える道筋を創っていきたい。私はその思いを改めて感じている、今。

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2007.08.24 Friday | 現代の教育について | comments(0) | trackbacks(0)

1時間ですぐに商売人になった子供たち



 一つ前のエントリで、私は週末に地元小学校で開催された「夏祭りに参加した」と書いた。
 夏祭り開始は、16時。

 この日は、午前中から遊びに来ていた我が子供たちの友人数名が、「夏祭り事前準備」ということで、15時半頃先に小学校へ向かった。
 私が16時頃に小学校に到着すると、彼らはなぜかベンチに座っていた。

「準備はもう終わったの?」と聞く私。
「17時から手伝うこととなった」と答える彼ら。

 「夏祭り」恒例の出店は、「焼きイカ」・「焼き鳥」・「みたらし団子」・「ちじみ(韓国風お好み焼き)」・「ジュース」・「冷やしきゅうり」・「カキ氷」・「冷やしうどん」・「天丼」という熱いものから冷たいものへと非常に微妙かつ戦略的な順で並んでいた。
 16時到着後、早々に「焼き鳥」・「ジュース」・「カキ氷」という恒例のコーナーに行列ができていた。しかし、それぞれ、何度も食べるものではなく、30分程度で、混雑は解消されつつあった。

 その後、大道芸や付近の中学校のブラスバンド演奏など、「夏祭り」はいつもの如く、地元の地域総出で、盛り上がっていた。

 そして、17時に小学生たちは出店の手伝いを開始。
 「でしゃばりな私」も、彼らの手伝いを指導するため、出店の裏へ。

 我が家で遊んでいた小学生たちは「みたらし団子」・「ちじみ」・「ジュース」にそれぞれ二人ずつでお手伝い。ちなみに私の長男は「ちじみ」を担当。もちろん、「ちじみ」販売に重点を置いたことはいうまでもない。
 小学生たちと数分間の作戦会議を実行。目的は、何といっても各店の商品を多く売るということ、そのためには全員でうまく協力し「チームワーク」を発揮させる、といったことを彼らに十分に伝え、彼らも納得した(ような感じだった)。

 「みたらし団子」の横には強敵である「焼き鳥」がいる。しかし、それなりに列が常にできている「ジュース」に、ありがたいことに小学生二人が手伝いをしている。
 まずは、「ジュース」を買いに来たお客さんに、お手伝い小学生が「次は、みたらし団子か、ちじみをどうぞ」と一言伝える作戦とした。しかし、どうも戦略が良くなかったのか、売れ行きにあまり変化が無かった。
 そこで、「焼き鳥」を買いに来ているお客さんに、同じように「次は、みたらし団子か、ちじみをどうぞ」と言う作戦とした。しかし、「焼き鳥」と一緒にみたらし団子やちじみを買う、食べる人も少なく、これまた作戦は失敗に終わった。

 結局、店の前を通る人々に「ちじみ、いかがですか!」、「みたらし団子、いかがですか!」と大声で叫ぶ、基本的な戦略を決行。
 小学生たちの叫びに、夏祭りに参加した人々は心を動かされたのか、徐々に、基本戦略が効果を見せてきた。また、小学校の先生方や、保護者各位が積極的に購入していただいた。

 そして、最後の作戦に出た。お手伝い小学生全員を再度、集め、「この作戦で行くぞ」と私は叫んだ。売れ行きが良いことを実体験した小学生たちも「やる気」満々である。

 「ちじみ」は、一つ100円。千円札を出せばおつりは900円となる。しかし、千円札を出したお客さんには「ありがとうございます、ちじみ10個ですね!」と言ってみるという作戦だ。
 最後の作戦は失敗に終わるかと思っていたが、「それじゃあ、2枚買うわ」というお客さんが数名。

 何でもやってみるものだ。小学生たちも、想定外の反応に驚いている様子だった。

 そして、「みたらし団子お一人様で10皿」という強烈な注文を頂戴することができた。「みたらし団子」は、一皿200円。五千円を出したお客さんに、「ありがとうございます、みたらし団子、25皿ですね!」と言ったところ、「おもしろいなぁ、でも25皿は多いから、10皿で許してもらえる?」という流れである。

 お手伝いの時間は1時間程。この間、いろいろと作戦を実行したおかげで、売れ行きはそれなりのものとなった。

 お手伝い終了後、私も帰ることに。しかし、帰ろうとした私に小学生たちの一言が。

「・・君の、お父さん、ちじみとみたらし団子、買ってから帰ってね」と。

 こうして私は、「ちじみ」と「みたらし団子」それぞれ2皿ずつ買わされてしまった。「10皿ずつ買いなさい」と彼らに言われなかっただけでもほっと一安心である。最後も彼らのチームワーク、連係プレーが発揮されたとも言えるだろう。

 1時間程度のミニ商売体験だったが、彼らはすっかり商売人へと変化していた。

 こういった、教室の中だけでは味わえない数々の体験が、将来、彼らにとって大きな糧になると私は信じている。彼らの十数年後の姿が本当に楽しみだ。

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2007.08.07 Tuesday | 現代の教育について | comments(0) | trackbacks(0)

食べ物を粗末に扱う伝説はいらないと私は思う

 テレビ朝日の「いきなり!黄金伝説。」という番組をご存知の方は多いだろう。私もそして私の家族も好きな番組の一つである。多くの内容が盛り込まれた番組だが、私は「全メニューを食べ尽くす」という企画だけは好きになれない。いや、嫌悪感を覚えるといっても良いだろう。

極上の肉が完食という言葉で咀嚼されるだけ
 週末に再放送していた「黄金伝説」を見た。超人気焼肉店の全メニューを食べ尽くすという企画である。3名の芸人が挑戦していたが、辛いものが続き、「5品目で無理」な状態になる一人がいた。その後も3人は食べ続ける。一品それぞれ人によって好みはあるかもしれないが、店としては最高の味を提供していると自負しているはず。その「自負・誇り」を3人は無残にも壊し続ける。

 誰でも、どんなに美味しいものでも、食べられる量には限度がある。その限度に近づくとその人間の一面が露呈する。途中で食べ方が下品になり、肩肘を付きながら食べる姿や、あきらかに無理に飲み込んでいるだけの場面が番組後半になると散見される。そして一人の芸人が一言。「もう飽きた、面倒くさい」とつぶやいた。

 もし私が焼肉店のスタッフであったなら、「金は要らないから、もう帰ってくれ」と言うだろう。そして私もこの言葉を聞いてチャンネルを変えた。

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2007.01.22 Monday | 現代の教育について | comments(4) | trackbacks(0)

ある公園での言葉と想い

 日曜日に5人の子供たちを連れていつもの近くの公園へ。様々な言葉が公園では飛び交っていた。

三男坊の言葉
 公園のブランコは青・ピンク2つずつ。娘はピンクに常に乗りたがる。しかし三男坊・四男坊という先客がピンクのブランコを独占していた。娘は四男坊にブランコを代わってとお願いする。しかし、四男坊は「嫌!」と言う。そこで三男坊が言った。
ブランコは逃げないよ。
いつも公園にあるよ。
一人でぶらぶらとしながらね。


公園で遊んでいた他の子供たちの言葉
 公園では次男坊の同級生の子供たち4名、そして私の知らない子供たちが3名程度遊んでいた。見知らぬ子供たちが「うざい!」・「死ね!」といった言葉を冗談交じりに話していた。
 「うざい」という言葉は関西では使わない。関西人で使う最も近い表現は「うっとおしい」だろう。少なくとも私が学生の頃、「うざい」という言葉は使わず、知りもしなかった。私の子供も「うざい」という表現を家庭でしていた記憶は無い。
 「うざい」なんて言葉を関西の子供はなぜ知っているのか。少し、想像は付くが、はっきりとしたことは分からない。

長男の言葉
 ブランコの次は「滑り台」。娘だけは一人で遊ばせるには、まだ危険な年齢。長男を筆頭に全員で固まって滑り台から滑るような遊び方をしていた。いや、私が長男に、「危ないからみんなで滑り台で遊んで」と頼んだというのが事実だ。
 途中、娘だけが滑り台の上で、少しふらふらと危ない状況に。すぐさま長男が言った。
だめよ、だめだめ。
自殺は駄目。
危ないからね。

 そして長男は娘をしっかりと抱きしめた。
 私が小学生高学年の時に「自殺」などという言葉を発した記憶は無い。恐らく「自殺」という言葉さえ知らなかったのではないだろうか。長男に「どうして自殺なんて言葉を知っているの?」と一瞬、聞こうかと思ったがやめた。

 数時間の公園での遊び。しかし様々な年齢の子供たちが様々な言葉を発している。その会話の隙間に僅かばかり、世相を反映した、あるいは無意識のうちに日常の会話の一つになってしまった「言葉・単語」がある。
 私の時代と違い、情報は様々な場所で得られることができる。また私や親の知り得ないところからも情報は発信されている。情報源を無くすことは無理であり、情報の取捨選択が可能になるリテラシーを持たすことも一朝一夕では無理な話。
 ただ、日々の子供たちの何気ない会話の「言葉」一つ一つに静かに耳を傾けることで、少しは彼ら彼女らの変化を見抜くきっかけになるかもしれない。そして、我々、親も何気なく話す「言葉」を少しは選びながら発していく必要があると、公園で遊ぶ子供たちを見ながら考えていた。

高校生の履修漏れ事件
 まったくこのエントリに関係ないが、単独エントリにするには私なりの情報源が無いということ、そして言う立場に無いため少しだけ雑感を書く。

 これから履修漏れに該当する高校生は補習やレポートを書くことで卒業への道を歩むとのこと。私は、「学ぼうという意欲が無い科目」について、卒業や大学へ進学するためだけに時間を割くということは、無意味だと思う。「世界史」という教科ではなく、どんな教科でも意欲が無い状態で学べば時間の無駄になるということだ。せっかく時間を割いても記憶にも残らないのではと思う。そして「先生方も積極的に教えようという意欲も無いのでは」と思う。きっと、このことは誰しもが、そして高校生自体が理解していることなのに、大人のやり方が押し付けられている。
 最後になるが、専門的な知識を学びたい、あるいは専門的な資格を取りたいなどの明確な意志を持っている高校生は大学や短大などに進めばよいと私は思う。進むべきかもしれない。ただ、「漠然と大学に行く、大卒でなければ」としか思っていないのならば、大学には行かなくても良いと思う。親に言われたとしても。ましてや「進学校」というレッテルを高校という組織が持ちたがっているだけなら、大学なんて行かなくてもいい。
 大学に行っていなくても、大学を卒業していなくても、豊かな人生を歩んでいる人を私はたくさん知っている。そして、これだけは断言できる。「有名大学に行ったからといって良い経営者になれることは無い」ということを。私がその最たる良い例だ。

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2006.11.06 Monday | 現代の教育について | comments(2) | trackbacks(0)

論理的思考能力よりも大切なもの

 この週末、家族全員で昼食をとっていた時のこと。食後に私は新聞をひろげました。すると、またある大学の試験内容と一部解答が掲載されていました。京都の国立大学の試験で数学関係だったのですが、下記のような問題でした。
座標空間に4点(2、1、0)、B(1、0、1)、C(0、1、2)、D(1、3、7)がある。3点A、B、Cを通る平面に関して点Dと対称な点をEとするとき、点Eの座標を求めよ。

 本当はこの問題以外にもさらに難しい問題があるのですが、残念ながらいわゆる数学で使う特殊な記号などがある問題ばかりで、エントリするにも記載できないものばかりです。
 実は、私はかなり数学が苦手で、中学・高校時代は数学については中間試験でほぼ0点近く(いわゆる、あきらめ・お手上げ状態)で、期末試験で必死になって勉強して、中間・期末試験の平均点で合格といった感じの学生生活でした。そこで、いつものように、独り言をつぶやきました。

「こんな問題が解けても、社会人になったら関係無いのになぁ」と。
(ちなみにこの言葉は数学や理系の重要性を否定するわけではなく、単なる私の数学への劣等感を示しているものです。何卒、ご理解の程、よろしくお願い致します。)

 すると、妻が私のつぶやきに応えてくれました。

「問題そのものでなくて、これらの問題を解く過程で論理的思考能力が試されるのよ」と。
「なるほど、論理的思考能力は必要だね」と私。

この我々の会話を聞いていた次男坊が一言。

「お父ちゃん、のんびり的思考能力って何?」

 「ろんり的思考能力」を息子は、「のんびり的思考能力」と聞き間違えたわけです。換言すれば、次男坊の頭の中の辞書には「のんびり」はあっても「論理」は、頭の辞書にはまだ入っていないということです。通常であれば、「論理」とはどういう意味か、わかりやすく次男に教えるところですが、今回はしませんでした。それよりも、彼が発した「のんびり的思考能力」というものの重要性に考えさせられました。
 論理的思考能力は、学校教育や様々な経験の過程で養われていくもの。私もどちらかと言えば、いや完全に物事を論理的に考え対処するタイプです。しかし、私自身がすっかり忘れていた思考能力、それが「のんびり的思考能力」です。
 「のんびり的思考能力」も、教育や多様な体験から得ていくものかもしれません。ただ、世間では「論理的思考能力」に重点・視点が置かれ、多くの人々は「のんびり的思考能力」を忘れているのではないかと私は考えます。
 「論理的思考能力」よりも大切なもの、あるいは「論理的思考能力」と合わせて持ち得なければならないもの、それが「のんびり的思考能力」なのかもしれません。「のんびり的思考能力」が備わっていれば、大きなプレッシャーやストレスも乗り越えられるような人間になるのではとも私は考えます。
 問題は、どうやってこの「のんびり的思考能力」を体得するかですが、いずれにせよ、「のんびり的」という考えは極めて重要な考え方・生き方ではないかと、次男坊のちょっとした一言で考えさせられた一日でした。そして、次男坊や我が家の小さな子供達が兼ね備えているであろう「のんびり的」をこれからも大切に伸ばしてやりたいなとも感じました。
 皆様も是非、「論理的」ではなく「のんびり的」な毎日をお過ごしいただければと思います。

追記:
少し古いエントリですが「週刊!木村剛 powered by ココログ: [ゴーログ] 知識が成功を邪魔する」にTBです。

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2006.03.06 Monday | 現代の教育について | comments(4) | trackbacks(0)

小学校での英語教育導入は不要だと思う

 昨今、小学校での英語教育導入について議論がなされ、意見は二分されているように思っています。今回、私なりの考えをここに示します。

大学入試の英文で覚えた違和感
 昨晩、帰宅後、夕食をとりながら新聞をちらっと読むと「国公立大2次試験」の問題と一部解答例が目に付きました。さてさて、久しぶりに自分の英語力を試してみるかと、いざ英文を読み始めたのですが、まったく読みこなせません。
 ネット上での海外サイトの論文や雑誌などの英文はまったくストレスを感じることなく、私は読むことができます。また、たまの週末に見るDVDの英語なども、字幕無しでもほとんど理解できます。
(話すことについては、このサイトでも何度か書いていますが、かなりレベルは落ちています。)
 さて、大学の試験に出されている英語をもう少し、じっくりと眺めるといわゆる受験単語、熟語といったものが散りばめられているような文章に感じました。仕方が無いことかもしれませんが、ネイティブに読ませたとしても、ちょっと違和感を覚える文体だと私は考えます。
(ちなみに試験は京都大学のものでした。だから極めて難しいという反論もできますが、ここでは議論しません。)

私が英語に最初に出会った時
 私が中学時代に最初に買ったレコードがR&Bに類するものでした。レコードから流れる英語が最初の出会いです。その後、ほぼすべて、購入したレコードは海外のものでした。そして、スピーカーから流れる英語を聞きながら、歌詞カードを見ながら、最後には何も見なくても歌うことができるようになりました。20年以上経った今でも、当時の曲は、ほとんど歌うことができます。
 このように音楽が私に英語の世界へと呼びこんでくれたわけです。その後、高校・大学と英会話教室に通い続け、単純に「楽しいから、好きだから」という理由で英語をある程度、マスターし、最後には米国留学へとたどり着きました。
(米国留学は英語を話すことができるから留学する、と決めたわけではありません。また英語力があるだけでは米国留学(MBA)は、無理であることもご理解下さい。)

米国での経験
 留学当時、日本は経済大国としてかなり注目されていました。科目によって異なりますが、多数の授業で「日本」について触れられました。そうなるとクラスに数名、時には私だけが日本人である場合など、必ず「日本人としての意見」を求められます。
 今もそうですが、当時も「読む・書く・聞く・話す」というスキルの中で、最も低かったものが「話す」です。最初の質問の内容は、もちろん理解でき、その回答もある程度、話すことができたのですが、そこから第三者からの質問や議論へと深まっていくに連れ、私の「話すスキル」では、追いつかなくなってきます。
 しかし、「私なりの意見・考え」をゆっくりともどかしいながらも話していくと、クラスの仲間は必ず耳を傾けてくれました。換言すれば、流暢な英語が必要なのではなく、「こいつの言っていることは聞くに値する」と思われれば、話し方など関係無いわけです。
 過去にも私は書きましたが、「いくら流暢なネイティブに近い英語を話すことができても、内容が伴っていない限り、誰も相手にしない」ということです。そして、これはどの言語・国においても同様で、かつ日本でも、中身の無い話をする人間は相手にされないということにつながると私は考えます。

中学・高校時代の経験
 これは私だけに限るのかもしれませんが、中学レベルの英語教育の内容だけで「英語によるコミュニケーション」というものは十分可能だと思います。高校レベルの何やら難しい教育内容は必要ないと私は考えます。換言すれば、高校レベルの難しい内容を知れば知るほど、英語を話す・書くといった場面で、躊躇してしまうといった感じでしょうか。頭でっかち・知りすぎてしまっていて、本来、自分が主張したい言葉がすぐ出てこないといった感じに似ています。
 そして、この点も仕方ないことかもしれませんが、英語の教師の発音のレベルの低さについて私は強い印象を持っています。せっかくの母校の先生方を非難することは残念ですが、文法や単語の意味を教えることはできても、いわゆる発音=話す、という点については非常に疎かだったと記憶しています。実際のところ、「話す練習」というものは当時の中学・高校では皆無に近い状態だったと記憶しています。
 今の教育現場がどのような状況であるか知りませんので、私の経験のみを今回は書いていることについてまず、ご容赦下さい。ただ、上述した大学入試の英文、そしてその質問・設問を見る限り、少なくとも「英語によるコミュニケーション」を英語教育の最終目的としているのであれば、かなり逸脱している、あるいはやり過ぎているのではと私は考えます。また、今年から始まったリスニングについては、逆に簡単過ぎる、この程度ではコミュニケーションは難しいのではとも私は考えます。

英語によるコミュニケーションに必要なもの
 何をもって「英語力が高い」とするか、どこかに定義らしきものがあるとは思いますが、高校生程度の年齢の頃に一年間、留学するだけで、ほぼネイティブに近い発音を体得することができると私は考えています。逆に大学卒業後の年齢で発音だけに絞ると、通常の方はどうしてもネイティブに近い発音は体得しにくいとも言えます。
 ただ、これも上述したように、流暢な話し方を相手(異言語の世界)は最優先として、求めていません。それよりも「中身」なのです。合っているか間違っているかはともかく、「確固とした考え・意見、そして知識」を持っているかが最も必要とされているわけです。
 そして、英語はほぼ全世界の共通語です。よって、英語を学ぶことも必要ですが、多くの国の相手の文化を知ることも忘れてはならない重要な点なのです。少し、話を変えます。

 米国で初めてマクドナルドに行った時。店員さんが何やら私には聞き取れない言葉をまず話し出しました。

「for here, or to go ?」
(最初に聞いた時はもちろんこのように話しているなど分かりもしませんでした。)
 これは、日本では「こちらでお召し上がりですか、それともお持ちかえりですか?」という誰でも知っている言葉です。しかし、その時まで英会話教室でも、もちろん学校の授業でも習ったことはありませんでした。

「paper or plastic?」
 これは、町のスーパーに行き、支払を済ませた後に聞かれた言葉です。もちろん初耳です。米国では(当時の話で今はどうか知りません)、スーパーのレジ袋には2種類(紙袋といわゆる日本でいうレジ袋)があり、どちらかを選ばなければならないわけです。この言葉も最初に聞いた時は一瞬、理解に苦しみました。

 また、留学時代は米国人だけでなく様々な国の留学生とプロジェクトを組みました。ヨーロッパ出身の学生の一部は、やはりワインを昼間からお茶のように飲んでいましたし、南米出身の留学生は「時間」というものの概念が根本的に我々と違いました(15時にロビーでミーティング、と決めても最低でも30分は遅れてくる、といった意味です。基本は5分前集合なんて概念は説明しても理解できないとも言えます。ちなみにこれも私の経験だけですので例外は必ずあることをご理解下さい)。
 このように、流暢な英語を話す能力以前に、異文化で暮らすために欠かせない英語・言葉、そして体験して初めて知る・理解できる文化の多様性。これらの点もできることなら英語教育の一環として学ぶべきことではないかと私は考えます。

小学校の英語教育への提言
 まず、英語を教える以前に、小学生という年齢から、できる限り、論理的思考能力、そして「言いたいこと、考えていることを明確に相手に伝えることができる」というスキルに重点を置くべきです。何度も言いますが、「自分の意見を持つ、主張する」ことができなければ、相手は耳を傾けず、そしてコミュニケーションは成立しません。英語よりも日本語をまず母国語として会得し、さらには思考能力や伝える力を身につける、これらの点のほうが重要ではないかと私は考えます。
 また、どうしても英語を、というのであれば、無理な話かもしれませんが、同年代の様々な国の子供たちと遊ぶ機会を作れば良いと私は考えます。様々な文化的背景を持つ子供たちと触れ合い、遊ぶことで、相手を理解しようという意識は自ずと芽生え、コミュニケーションを図るために結局、英語という言語を使い、交流が始まるわけです。文法も単語も関係無く、まずは遊ぶことからスタートしなければ、英語に対する興味も、そして必然性も理解できないと私は考えます。
 過去に私は書きましたが、これは他の科目にも言えることです。なぜ、「掛け算を学ばなければならないのか」を十分に理解しなければ、掛け算を体得することは子供たちにとって非常に難しいことです。しかし、時間をかけて、買い物や毎日の暮らしに掛け算は必要だと子供たちが明確に理解すれば、掛け算そのものは難しいものでもなく、子供たちは興味を持って、掛け算を学ぼうとするでしょう。
 英語も同じです。しかし、まだ小学生に「なぜ、英語を学ばなければならないのか」ということを理解させる必要は無いと私は考えます。無理な話とも言えるでしょう。よって、同年代の様々な国の子供たちと遊ぶ機会を与えるだけで十分だと私は考えるわけです。

最後に
 久しぶりに長文を書きました。思いつくままにあっという間に書いた文章で、まったく理路整然としてませんが、今になって、「私はなぜこんなことを書いているのだろうか?」と我ながら疑問に感じてきました。
 ただ、5人の私の子供たちの何人かは既に小学生。まもなく小学生になる子供もいます。私は「英語を書く・読む・聞く・話す」というスキルを僅かですが持っています。そしてその素晴らしさも知っています。確実に世界や視野が拡大します。しかし、自分の子供たちに、少なくとも今の年齢の段階で、これらの素晴らしさを押しつけようとは思いません。ただ、近い将来、興味を持つようになれば、私なりにできることをやっていければと思っています。
 今の年齢の彼らにとって必要なことは、様々な科目をバランス良く学び、自分の考えを持つ能力を体得し、そしてその自分の考えを相手に伝える能力を身につけること、これらだけで十分であり、これらだけでもかなり難しいことだと私は考えます。
 英語は、まだまだ後で十分です。英語を勉強している子供たちよりも、運動場で走りまわっている彼らの姿の方を私はできるだけ多く見たいと考えています。

参考リンク:
現代の教育について
2006.02.28 Tuesday | 現代の教育について | comments(9) | trackbacks(3)
是非、ご覧下さい
ティファニーのテーブルマナー
ティファニーのテーブルマナー (JUGEMレビュー »)
W.ホービング
私がホテルマン時代に上司からこれだけは読めと言われた、テーブルマナーを知る基本の書籍。

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