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※ 20年近くお世話になった近所の年配の方、現在、危篤状態です。(2018年6月13日)
※ 20187月某日永眠
「というふうに、あんた、愚痴こぼしているんやな」と年配の方は言った。
「すいません、わかりましたか」と私。
「無理せんように、わかっているやろけど」とさらに言われた。
よくある「お大事に」ではなく「無理せんように(無理するなよ)」だ。
何気ない言葉だが、受け手には大きな違いがある。
ご承知のように私は緑内障。毎月一回は薬局で目薬をもらった後、「お大事に」と言われる。それはそれでいい。
さて、冒頭の言葉。近所に住む80歳のご老人から。ゼネコントップの運転手一筋だった方。お互い名前は知らない。ただ、会えば世間話で盛り上がる。いや、相手をしていただいている。
先週、視野検査だった。残念ながら左眼の周囲だけでなく黒目、いわゆる眼の中心部まで欠損していることがわかった。検査しなくとも体感で左眼が極度に見えなくなっていることはわかっている。しかし改めて検査結果を聞き、その話をちょうどご老人にしたところ冒頭の言葉となった。
そう、私より30年も先輩の方だからこそ愚痴をこぼしたのだ。そして人生の先輩は、愚痴だなと理解され、私に対し「無理するな」と言われた。まさに私にとっては的確な言葉。
「お大事に」もうれしい。ただ、人それぞれ受ける気持ちは違う。もう失った視神経は蘇らない。ただ「まだ気概だけは失うなよ、自分。まだまだ自分を必要な人はいるのだから」と、老人の一言で再確認した。
「人は誰も、内側で考えているとおりの人間である」
「心の中の想いが私たちを創っている」
「私たちは、自分の思いによって創り上げられている」
「人間は想いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」
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